時が流れるように(インターステラーを見て)

これはすごい、という映画に時々出会います。子供の頃なら何を観ても面白いけれど、だんだんと大人になってきて、沢山の映画を見てくれば、興味深さが感じられる映画は少なくなってきます。

ようやくインターステラーを見ました。日本で盛り上がっていた頃は観る気が起こらず、最近友人から紹介されたきっかけがあって、鑑賞しました。はい。名作です。

どこから手を付けていいかわからないほど、この映画には様々な要素が含まれていますが、時の流れについて考えさせられる映画だといってよいと思います。私にとっていえば、バックトゥザフューチャーと同じぐらいの影響力の大きさがありました。

ウラシマ効果とは一体何なのか、これ以上分かりやすい教材はないでしょう。時間の流れが違ってしまった親子関係。娘が父親よりも先に老化してしまう。時の流れって、何なのでしょうか。

地球上で生きている限り、それは同じ重力のもとにある限りということになりますが、すべての人間には平等に時が流れる。だからこそ、何事もなければ、親が先に死にゆく。10年たてば、公平にすべての人間は10年分の年齢を重ねる。当たり前のようでいて、これもまた実は当たり前のことではないのかもしれません。

時は無情なほどにすべてを洗い流す、と桜井某は歌いましたが、「時:とき」って興味深いものです。

ある意味で、時のようでありたいと思います。

どんなことが起ころうとも、どんな影響があろうとも一定方向に安定して進みゆくもの。どんな人に対しても公平であるもの。近い将来の楽しみをもたらすものであり、失敗した過去を遠ざけて忘れさせるもの。

時のように生きる、というイメージには、良き教訓があるんだろうとおぼろげに感じ始めています。はい。もうすぐ38歳です。

自分探しでは自分は見つからない

これまでモヤモヤと考えてきたことが文章化できそうなので挑戦してみます。それは、「自分探し」についてです。

この「自分探し」という日本語には興味深い意味が含まれていると思います。デジタル大辞泉には「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。」と説明されていましたが、昔には存在しなかった日本語を定義するというのは難しいことだと感じます。

確かに自分探しには、これまでとは違った生き方や居場所を見つけることが関係していると思いますが、それだけでは説明が足りないと思います。例えば、「自分の長所や短所をもっとよく知ろうとすること」なども入ってくると思います。また、「今の自分に対する物足りなさ」も含まれてくるでしょう。言葉の定義って大変です。

さて、自分探しによくあるパターンとして、「今までの日常ではない、非日常の時間を過ごすことによって何かに気づきたい」というものがあります。例えば旅行に出る。特に観光地に行くのではなくて、インドでバックパッカーをするとかありますよね。また、「これまでとは全く違う環境に飛び込んでみる」というのもあると思います。

これらは、「今までの延長線で物事を考えるのではなく、全く違う観点で自分の生活を向上させるきっかけを得たい」というまとめ方ができるでしょう。これはどれほど有効なのでしょうか。

全く効果がないという断言は当然できません。それが良かった人もいるかとは思います。

しかしながら私の意見として、この考え方はイマイチだと感じます。生活を向上させる方法として今までの延長線で考えないというのはとてももったいないことだと思います。そこらへんを掘ったら温泉が出たとか宝石が発掘されたというのに感覚的には近いです。

今の自分を向上させたい、生活でもっとやりがいを得たい、しっかりとした居場所が欲しい、と思ったときに、今までの自分を捨てて全く新しい生活や場所を突然見つけようとするというのは、かなりリスクの高い、失敗しやすいやり方だと考えます。

自分探しには、「今持っているものではない、今いる場所ではないどこかに希望がある」というニュアンスが少なからず含まれています。

しかし、私が考えますに、超重要な自分探しというのは、「今本当は持っているのに、持っていることに気が付いていないものを再発見し、その価値を認める」ということだと思うのです。

これは、日本語の「有り難い」という言葉に近いものです。有ることが、難しい、ということです。本当なら無くてもおかしくないものが、今の自分にある、自分に与えられている、とてもありがたい。有り難い。この感覚です。

ある人の価値は、一緒にいた時ではなくて、いなくなって初めてわかるといいます。まさにこれです。一緒にいる時にこそ感じるべき有り難さが、離れてしまってから気付く、死んでしまってもう二度と会えなくなってから気付くのです。

自分探しが上手にできるようになれば、今持っている能力、知識、友人、立場、家族、それらがとんでもない価値を持っていることに気づきます。それらはどれだけお金を払っても買えないものなのです。その特別な価値に気が付いて、それを大切にしたいと思うときに、そして、それらを大切にしようとする行動や言葉のひとつひとつが、自分の居場所になり、自分の生きがいになっていくのです。そこに居たいと思えるのです。

デジタル大辞泉の、「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。」とか読みましたが、ふざけるなと思います。そんな自分勝手でうまくいく可能性の少ない意味に勝手に定義するんじゃない。日本語を粗末に扱ってはならない。

最後言葉が荒くなってすみません。でもなんか言いたいことがちゃんと書けたから嬉しい。

ある物事や人が、全く違って見えるようになること(パラダイムシフト)

7つの習慣にはパラダイムシフトという言葉があります。この言葉はちょっと分かりにくいです。パラダイム(見方)がシフト(変更)するということですが、日本語に吸収するなら、「見え方の変化」「思い込みの解除」といった表現になると思います。最近面白い話を知ったので書いておきたいと思います。


ある女性が空港で飛行機を待つことになりました。時間があるのでお菓子などを買い、席を見つけてうとうとしていました。ふと時間を見ましたが、まだまだ出発まで時間があります。隣には一つ席を空けて、外国人の男性が座っていました。まぁあまり気にせず、自分で買ったいちごポッキーを食べ始めます。そうしたら、そのいちごポッキーをその外人さんも手を出してきて食べるのです。何て失礼な。私が一本食べる、そうすると、外人さんも一本取って食べる。それが一袋終わるまで続いたのです。袋に入っていたポッキーが奇数だったので、最後の一本はもちろん私が食べました。食べたいなら自分で買えばいいのに。

ようやくゲートが開き、飛行機に搭乗しました。そうしたら何とさっきの外人さんがまた隣の席にいます。なんだかついていません。あまり気にしないようにしようと気持ちを切り替えて、窓の外を眺めていました。

さて、飛行機が離陸して、ベルト着用サインが消えて、これから数時間の空の旅です。何かしようと思い、カバンを開けました。

なんと、そこには「いちごポッキー」があったのです。

どういうこと!?

さっき飛行機を待ちながら空港で食べたポッキーは、自分が買ったものと全く同じものを外人さんが買って席においてあったものを、自分が自分のものだと勘違いして他人のものを食べていたのです。うとうとしていたせいで、ポッキーをカバンの中にしまっていたことを忘れて、そこに置いてあるものが自分のものだと間違えたのです。

何て言うことでしょう。私の持つポッキーの袋に手を出して食べていた外人さんは、「自分のポッキーを勝手に食べ始めた失礼な女性」に何も言うことなく、半分ずつ仲良く食べてくれたのです。しかも、最後の一本まで相手が食べても何も言わずにいてくれて。

ちらりと隣に座る外人さんを見ました。穏やかな顔で眠っています。失礼な人だと思っていたのが本当に恥ずかしい。失礼なのは自分だったのです。

この外人さんへの自分の見方が、最初と最後で本当に大きく変わったのが分かると思います。相手は、何も変わっていないのです。

私たちは、いろんな物事や人を「勘違いしながら」見ています。ある一部分しか知らずに、全体を知らずに好き嫌いを付けていくことがよくあります。というか、それが自然だといえます。しかも、その知っている一部分さえ、何か間違って覚えていたりするのです。

私たちは自分の考え方・見方だけが絶対に正しいなんて、絶対に思わない方が得です。いつも、違った見え方があるはず、本当のことは別にあると思いながら人やモノと接していた方がずっとうまくいきやすくなります。

そして、自分の見方が変化していくことを楽しめるのは素晴らしいと思います。「ああ、やっぱりこれまでの見え方・とらえ方は間違っていた」っていう経験を積み上げながら年を重ねていけるのは素敵です。

一度見え方の変化を経験すると、その後はずっとその人に対してその見え方が自分のものとなります。何を言っているかというと、一回気づけば、後はずっとそれが有効なのです。忘れて元に戻ることはありません。ですから、「一回気づくことができるその機会」「見え方を変化させることができるきっかけ」というのは、とてつもなく貴重だということです。

自分の見方をいつも絶対だと思わないこと、そして、見方を変化させることができる機会を貴重なものだと思って、そのためのコストや手間を惜しまないこと。これは、生活を楽しませる大事な要素だと思います。

パラダイムシフトを、これからも、し続ける。