与えることができる種類

与えることは幸福とつながっています。これは、一定以上他の人に与えることができるようになった人は誰しも理解できることです。欲しかったものが得られた時も幸福を感じますが、それはあまり長続きせず、毎日毎日感じ続けられるわけではありません。それに比べ、与えるという行為から感じ取る幸せはいつでもいつまでも味わい続けられるものです。

この与える行為にも、少し踏み込んでみますといくらか種類があることが分かります。どのように与えるかによって、味わう幸福感もまた異なってくると思います。

まず初めに思いつくのは、「モノを与える」こと、プレゼントです。相手から頼まれて仕方なくあげることもあれば、相手が欲しいであろう物を推測し、欲しいといわれてもいないのにプレゼントすることもあると思います。もちろん後者の方が幸福感は大きいわけです。

次は「時間を与える」ことです。一緒に過ごす時間を確保する。相手の話を聞く。楽しく会話する。特に何を話すわけではないけど一緒にいることです。これが自然にできるようになると、与える幸福感というのはとっても味わいやすくなります。間違えてはいけないのは、「相手から何かを聞き出したい、何かを与えてほしい」という気持ちで、自分の都合だけで相手に近づくのではないということです。そういうのは相手に伝わってしまってあまり気持ちの良いものではありません。何気なく一緒に過ごすことになり、一緒にいたらなんだか楽しかった、そういう感じです。そういうことを、偶然そうするのではなく、与えたいという気持ちで自分からきっかけをつくってやるのです。

さらに与えられるのは「何かを教える」ことです。例えているなら、「魚をあげるのか、魚の釣り方を教えてあげるか」ということになります。相手に知識や理解や方法を教えてあげることができれば、相手はその後ずっと活用できます。モノを直接あげるのも楽しいことですが、時間をかけて何かを教える、そのプロセスそのものが幸福感をもたらします。料理、ガーデニング、言語、楽器演奏、パソコンやタブレットの使い方など、自分の得意分野を活用して、関心があるけどまだあまり詳しくない人に教える時間を意識して作るなら、そこからとても楽しい時間が過ごせるようになります。

そして、もっと高いレベルがあります。それは、「人を育てる」ということです。教育に携わるということです。次世代を担う人材に、簡単ないくらかのことを教えるだけではなく、大切ないろいろなことを教える、理解できるように助ける、間違わないように注意を与える、そういった沢山のことを担うことです。

これは、多くの成功者が、最終的には「学校設立」をしたり、自分の業界での「教師」になったりする傾向がよくある、という事実からも説明できると思います。色々な経験や苦労をくぐり抜けた後、結局最後には、人を教えていたい、という終着点にたどり着くことは多いのです。

さて、勘の良い方はお気づきかと思います。これらはすべて、多くの人が自然に味わうものなのです。それは、子育てです。

子育ての中には、人が味わう与える喜びが全部詰まっている。

時が流れるように(インターステラーを見て)

これはすごい、という映画に時々出会います。子供の頃なら何を観ても面白いけれど、だんだんと大人になってきて、沢山の映画を見てくれば、興味深さが感じられる映画は少なくなってきます。

ようやくインターステラーを見ました。日本で盛り上がっていた頃は観る気が起こらず、最近友人から紹介されたきっかけがあって、鑑賞しました。はい。名作です。

どこから手を付けていいかわからないほど、この映画には様々な要素が含まれていますが、時の流れについて考えさせられる映画だといってよいと思います。私にとっていえば、バックトゥザフューチャーと同じぐらいの影響力の大きさがありました。

ウラシマ効果とは一体何なのか、これ以上分かりやすい教材はないでしょう。時間の流れが違ってしまった親子関係。娘が父親よりも先に老化してしまう。時の流れって、何なのでしょうか。

地球上で生きている限り、それは同じ重力のもとにある限りということになりますが、すべての人間には平等に時が流れる。だからこそ、何事もなければ、親が先に死にゆく。10年たてば、公平にすべての人間は10年分の年齢を重ねる。当たり前のようでいて、これもまた実は当たり前のことではないのかもしれません。

時は無情なほどにすべてを洗い流す、と桜井某は歌いましたが、「時:とき」って興味深いものです。

ある意味で、時のようでありたいと思います。

どんなことが起ころうとも、どんな影響があろうとも一定方向に安定して進みゆくもの。どんな人に対しても公平であるもの。近い将来の楽しみをもたらすものであり、失敗した過去を遠ざけて忘れさせるもの。

時のように生きる、というイメージには、良き教訓があるんだろうとおぼろげに感じ始めています。はい。もうすぐ38歳です。

自分探しでは自分は見つからない

これまでモヤモヤと考えてきたことが文章化できそうなので挑戦してみます。それは、「自分探し」についてです。

この「自分探し」という日本語には興味深い意味が含まれていると思います。デジタル大辞泉には「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。」と説明されていましたが、昔には存在しなかった日本語を定義するというのは難しいことだと感じます。

確かに自分探しには、これまでとは違った生き方や居場所を見つけることが関係していると思いますが、それだけでは説明が足りないと思います。例えば、「自分の長所や短所をもっとよく知ろうとすること」なども入ってくると思います。また、「今の自分に対する物足りなさ」も含まれてくるでしょう。言葉の定義って大変です。

さて、自分探しによくあるパターンとして、「今までの日常ではない、非日常の時間を過ごすことによって何かに気づきたい」というものがあります。例えば旅行に出る。特に観光地に行くのではなくて、インドでバックパッカーをするとかありますよね。また、「これまでとは全く違う環境に飛び込んでみる」というのもあると思います。

これらは、「今までの延長線で物事を考えるのではなく、全く違う観点で自分の生活を向上させるきっかけを得たい」というまとめ方ができるでしょう。これはどれほど有効なのでしょうか。

全く効果がないという断言は当然できません。それが良かった人もいるかとは思います。

しかしながら私の意見として、この考え方はイマイチだと感じます。生活を向上させる方法として今までの延長線で考えないというのはとてももったいないことだと思います。そこらへんを掘ったら温泉が出たとか宝石が発掘されたというのに感覚的には近いです。

今の自分を向上させたい、生活でもっとやりがいを得たい、しっかりとした居場所が欲しい、と思ったときに、今までの自分を捨てて全く新しい生活や場所を突然見つけようとするというのは、かなりリスクの高い、失敗しやすいやり方だと考えます。

自分探しには、「今持っているものではない、今いる場所ではないどこかに希望がある」というニュアンスが少なからず含まれています。

しかし、私が考えますに、超重要な自分探しというのは、「今本当は持っているのに、持っていることに気が付いていないものを再発見し、その価値を認める」ということだと思うのです。

これは、日本語の「有り難い」という言葉に近いものです。有ることが、難しい、ということです。本当なら無くてもおかしくないものが、今の自分にある、自分に与えられている、とてもありがたい。有り難い。この感覚です。

ある人の価値は、一緒にいた時ではなくて、いなくなって初めてわかるといいます。まさにこれです。一緒にいる時にこそ感じるべき有り難さが、離れてしまってから気付く、死んでしまってもう二度と会えなくなってから気付くのです。

自分探しが上手にできるようになれば、今持っている能力、知識、友人、立場、家族、それらがとんでもない価値を持っていることに気づきます。それらはどれだけお金を払っても買えないものなのです。その特別な価値に気が付いて、それを大切にしたいと思うときに、そして、それらを大切にしようとする行動や言葉のひとつひとつが、自分の居場所になり、自分の生きがいになっていくのです。そこに居たいと思えるのです。

デジタル大辞泉の、「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。」とか読みましたが、ふざけるなと思います。そんな自分勝手でうまくいく可能性の少ない意味に勝手に定義するんじゃない。日本語を粗末に扱ってはならない。

最後言葉が荒くなってすみません。でもなんか言いたいことがちゃんと書けたから嬉しい。