行動力がもたらすもの(最近の近況と共に)

英語の勉強を少しお休みしていて、回復を待っていました。ちょっと頑張りすぎたみたい。色々なことが後手に回るようになっていて、嫌な感じでした。「もうしょうがないね!」という気分で、無理せずこのところ沢山寝ていました。あとはお風呂入りに行ったりです。

少々気力が戻ってきました。「よしやるか」というこの感じです。これは本当に大事です。これがないと何もできない。

昨日は生まれて初めて人前での通訳をやりました。個人的な橋渡しはやったことがありましたが、ある程度体裁が整った形でやったのは初めてでした。世界中にいる通訳者たちの気持ちをほんの少しだけ、ついに味わいました。僕にこんな日が来るとは。

感想をシンプルに述べます。楽しかった。他の人の話を、聞こうとする皆さんに伝わるように間を取り持つというのは、僕結構好きだということに気づきました。今の言語に取り組んでもうすぐ3年なのですが、長く取り組んできたものが実を結び始めるというのはとんでもない充実感があります。

話し手のテンションとか気持ちってありますよね。それをできるだけ真似したい。ただ字義訳的に変換するのではなくて、話し手の伝えたいことが伝わるようにする、という感覚です。ほんの少しなら意訳もしちゃいます。もちろん、本人が話した単語の訳が分からなくて、簡単な他の単語で説明を補おうとして、結果的に意訳になっちゃう場合も多々あったわけですが。

昨日は本当に、僕が人生でやっていきたいなと思うことが一つ叶った時でした。人生に飽きずに、学ぶことを楽しみ続ける、ということです。このブログもまさにそのためにやっているわけですが、実生活で一つ実感できました。良かった。

ですので、改めて英語に取り組もうと思います。第一言語としての母語なる日本語、そして第二・第三言語にミャンマー語と英語です。

英語に挫折した僕が、第二言語にまずミャンマー語を選んだのは本当に良かったと思います。ある程度基本的な単語が使えるようになった今、日本語が母語の人たちにとって、ミャンマー語なら上達しやすいというのはよく分かります。文法が近いということは、思考は日本語のまま、それをミャンマー語に置き換えていくだけで話せるのです。

英語が母語の人たちがミャンマー語を覚えるのにとても苦労している様子をよく見ます。苦労というのはちょっと印象が違いますね、どちらかというとあんまり本気で覚える気がなさそうな人をよく見ます。もう英語出来るからいいよね、という感じです。ミャンマー人のうち、かなり人は英語ができるから、まあ英語が話せる人を捕まえれば何とかなるか、という感じです。とにかく、英語の文法のままミャンマー語を話そうと思っても無理だから、ハードルが高すぎるんですねきっと。

だから、2年目3年目の日本人はどんどんミャンマー語ができるようになってくる、けど5年たった欧米人はなかなかミャンマー語できるようにならない、そういうことが起きます。(もちろん英語圏の方がミャンマー語に上達することはあります)

日本語以外の言葉をちょっと使えるようになって、改めて、英語も頑張れば可能性があるんじゃないかって、思えてきました。やる気って大事だなあ。

で、ようやく本題です(長っ)。

英語勉強用のkindle本を探していて、遠山顕というNHKラジオ英会話を書いている人の本がよさそうだなと思って選んだりしていたんですけど、その時にとある日本語の本が紹介されました。

その本のタイトルは、「結局、「すぐやる人」がすべてを手に入れる」というものです。著者とこの本に寄せられたコメントを読んで、本自体を読むのはやめました。それほどの価値はないと思いましたので。ただ、このタイトルは秀逸です。コメントの中に面白いものがあります。


すべて読み終わったが、書いてあるすべての中で、題名だけが、一番説得力があった。逆に言えば、題名を読んだら中まで読む必要があったのだろうか?

笑。これすごくよくわかる。中身読んでないけど分かる。

そして、「すぐやる人」でgoogleの検索をかけました。そうしたら、立花岳志さんのブログが上位に出てきました。

http://www.ttcbn.net/no_second_life/archives/40799
「すぐやる人」が最強である件について

これもとてもよく分かります。

ですので、この機会に僕も、「行動することの価値」について書いておきたいと思います。

「思考」と「行動」についてです。これらをバランスよく持つにはどうすればいいのでしょうか。

まず、考えてばかりで行動しない人、もしくは、行動はすごいんだけど思考がとても鈍い人、これらがよくないことは明白です。

順序が関係しますか? 行動が先か思考が先か。これはすごく難しい問題です。行動すると思考が回り出すってよく知られています。けど、思考があって行動があるわけですしね。

私が良く考えていること、それは、時間です。短さ、速さです。

「思いついたらすぐにやる。」 これは、強いです。

長々と考えていても、そのうち集中力が切れて、保留になります。

少し考えて、そしてすぐに行動する。長々と行動するのではなく、少しだけやる。行動を少しすると、思考が回る。

思考 -> 行動 -> 思考 -> 行動 を、短く延々と繰り返すのです。

ミスせずに仕事してくるAさん。けれども反応がいつも遅い。

時々ミスをするけど、どんどん仕事を進めていくれるBさん。ミスもカバーしてしまい、結局仕事は進んでいく。

軽率になれとは思いませんが、どんどん思考を行動に活用できる人は強いです。

せっかくの思考が、自分の心の壁で行動に移せないのは本当にもったいないです。

今回は少々支離滅裂で失礼しました。考えた順に散文させていただきました。

 

世の中の宗教を見分けるカギ

#この投稿は、キリスト教について述べています。別の信仰を持っている方の気分を害さないよう、先にお伝えしておきます。

世の中にはいくつかの宗教があります。もしくは無数の宗教があります。

恐れずに言って、私たちの身の回りでは、「無宗教」や「無神論」がよく見られます。

僕なりに宗教を定義させてもらうと、宗教とは、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という質問の答えを提示するもの、だと思っています。

「無宗教」や「無神論」にとっての、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という質問の答えとは、「どこからか来たし、どこかへ行く。特に関心はない。」ということになると思います。(大ざっぱに書いたので、自分は違う、という方がおられたらすみません)特に根拠はなしに「亡くなった人がお星さまになって、見守っていてくれるはず」だと思ったりすることも、このような無主教・無神論の一部だと思います。

まず僕がここで述べたいことですが、「人間がどこから来たかに関心はない」という方には、これに続く文章は何も響かないと思います。そういうことはどうでもいいと思っている以上、宗教の説明があっても読む気がしないですよね。しょうがないことです。

それなりの答えを提示している宗教は、次のようなものです。

キリスト教。イスラム教。ヒンズー教。仏教。ユダヤ教。儒教。神道。

これはサイズが大きい順に書きました。2009年ブリタニカ百科事典から引用した数字を大まかに書き入れると、

キリスト教(22億人 33%)。イスラム教(15億人 22%)。ヒンズー教(9億人 13%)。仏教(4億人 6%)。ユダヤ教(1%以下)。儒教(1%以下)。神道(1%以下)。

ということになるそうです。

さて、この中から宗教を選ぶにはどうしたらいいのでしょうか。色々な選び方があります。親がやっていたから、友達がやっていたから、そういう身近な宗教を選ぶこともあると思います。また、本屋さんでいろいろな本を読んで、正しいと思えるものを選ぶ、そういうこともあると思います。

このブログの投稿も、その一助になればと思います。

世界で一番大きい、キリスト教。大きいというのは関わっている人数のことです。まずキリスト教が正しいのかどうか考えてみる、これは妥当な検討ではないでしょうか。まぁ、世界で誰もまだ信じていないとか、ほんの数人が信じている小さな宗教の正しさを調べるよりは、世界で一番大きい宗教がどんなものか調べるのは悪くないと思います。

もちろん私はここで、「世界で一番信じている人が多いから、キリスト教が正しいんです」などと言うつもりはありません。

この投稿の本題にようやく来ました。すみません前書きが長くて。

「人間がどこから来て、どこへ行くのか」その答えを探すなら、自分が納得できる宗教を見つける必要があります。もしまだ宗教に関心を持っていないなら、少々関心を向ける必要があります。そして、納得できる宗教を見つける方法の一つは、キリスト教が信じられるのかどうかをまず検討してみるということです。

今回この投稿では、キリスト教が信じられるのかどうかを検討するカギとして、「イエスキリストは本当に復活したのか(人間として一度死に、再度生きて天に上った)」というテーマを提示したいと思います。

なぜこのテーマを選ぶのかというと、これは私達にとって信じがたい超自然的なこと、不自然なことでありながら、もしこの復活が起きていないとするならば、キリスト教の根幹が壊れてしまう大きな分岐点となるからです。

もしあなたが、キリストが復活していないということを証明できるとするなら、それは世界を変えてしまうほど大きな出来事になります。

ちなみに、イエスが実際に存在したのかどうか、その段階から疑っている方のことはここでは扱いません。他に譲ります。ここでは、存在は当たり前として、復活したと考えることが正しそうな理由を説明することに絞ります。

ではここから、「イエスキリストが復活したと考えるのが正しそうな理由」を説明します。考える順番として、ローマ帝国が西暦313年にキリスト教を認めたという所から始め、そこから過去に戻っていきたいと思います。

ローマ帝国はそれまで、ずっとキリスト教を抑え込もう、なくしてしまおうとしてきました。しかし、キリスト教は無視できないほど大きくなっており、抑え込むよりは利用した方がよいという状況になりつつありました。実際、そのキリスト教が認められた西暦313年以降、爆発的にキリスト教は拡大し、392年にはキリスト教がローマの国教と指定され、キリスト教以外が禁止されるほどの展開となります。

イエスキリストが死んだ年は西暦33年ということが一般的に有力です。証拠は他に譲ります。それが正しいとして、イエスが死んでから280年後にはキリスト教がローマ帝国に認められるほどの影響力を持ち、359年後にはローマの国教指定を受けるという歴史となっています。

ここから確実に言えることは、イエスキリストが地上からいなくなった後、キリスト教は小さくなってしまうどころか、ひたすら拡大を続けて影響力を持ち続けていたということです。

ユダヤ教から嫌がられ、ローマ帝国から目の敵にされ、嫌がらせを何度も受けながら、しぶとく拡大していったキリスト教というのはとても不思議なのです。

そこには、命をかけて布教活動をした弟子たちの存在があります。彼らは、なぜそこまでの行動ができたのでしょうか?

その主な原因が、「イエスが、本当に復活した」ということなのです。

言い換えましょう。もしも、イエスが復活していなかったとすれば、弟子たちが命をかけて布教できるはずがないのです。どうでしょう、人間が、自分の命をかけて何かを行う場合、それを本当に信じていなければできないですよね。

イエスの復活が嘘ならば、命をかける理由などどこにもありません。そのままイエスの存在は忘れ去られるはずなのです。弟子たちにとってイエスが、自分は復活するという嘘をつきただ死んでいった人として、弟子たちはただ落胆し、そこでキリストの教えは終わったことでしょう。キリスト教と呼ばれるようになることもなかったことでしょう。

ある人たちは、キリストの復活について疑いを向けます。「墓の中から遺体がなくなったという出来事も、弟子たちが自分たちで盗み出したのだ。その後弟子たちは、本当は見てもいないのに見たことにして嘘をついているのだ、もしくは幻影を見て復活したと言っているのだ。」と、そういう考えを持つ人たちがいます。

けれども、もしそれが本当だったとして(イエスは実際にはただの人間で、復活などしていなかった)、それを知りつつ弟子たちが嘘をつき、自分の命をかけてキリスト教を確立していくことに、どんなメリットがあるのでしょうか。そして、それが最初の数年間はうまくいったとしても、その後300年近く影響力を持ち続け、拡大をし続けることなど本当に可能でしょうか。

キリストの復活を目撃した人間は500人以上いたと書かれています。その人たち全員で嘘の口裏合わせをし、嘘を基にキリスト教を確立することなど本当に可能でしょうか。

イエスとは、たった3年半の活動をした30代の男性です。仮にどんな良いことを言っていたとしても、本当に確固たる証拠を見せられなければ、大の大人がこぞってその教えに命をかけることなどないのではないでしょうか。

キリスト教の拡大を見る時に、一番自然だと思える結論があります。それは、「人間として活動していたイエスと共にいた時、回りの人たちはイエスに対して疑いが残っていた。しかし、多くの人がイエスが本当に死んだ姿と、復活した姿を見た。それは500人以上に対するもので、疑いようがないものだった。嘘で口裏をあわせたのではなく、ともに驚いた人たちがいた。ゆえに、当時の反対者ユダヤ教やローマ帝国ですら、復活そのものを疑うことはできなかった。イエスが天に昇っていったという奇跡も弟子たちは見たのであり、イエスが特別な存在だということを確信し、それゆえに、命をかけてキリスト教を確立しようとした。」というものです。

その結論から導き出せる、もう一つ自然だと思える考えがあります。それは、「イエスを復活させた存在がある。その存在は、人の命にかかわっている。イエスの命を復活させたわけだから。それは、イエスが祈りで父よと呼びかけた神である可能性が高い。その神は、人がどこから来たのか、どこへ行くのか、その答えを持っていると思われる。」ということです。

今回この投稿では、宗教を見分ける方法としてキリスト教の出発地点について書きました。そしてこのことは、世の中の宗教について考えるのに一つの良いきっかけになると思います。もしこのきっかけに少し関心が沸いたなら、当然、次のような質問が出てくると思います。

今も目に見えない形でイエスが存在しているとしたら、何をしているのか。それは人間と関わりがあるのか。

キリスト教の土台が仮に正しいとしても、ローマカトリックに始まりヨーロッパを形作り、プロテスタントに別れ、アメリカの土台ともなり、様々な枝分かれをしたキリスト教を今どのように考えればいいのか。

その答えはまた別に譲りたいと思います。

長文、お読みいただきありがとうございました。

 

良導体であること(現代版わらしべ長者)

ありがたいことに仕事が忙しいです。

新しい本を読んだりとか、何か考え事をするとかしてブログの投稿をする余裕がありませんでした。いいことかな。

一つイメージがうまく行っているように感じることがあります。

それは、できるだけいつも、誰が何を欲しいのか注意して、そして、その欲しいものを誰が持っているのか見つけ、持っている人から欲しい人へと渡るようにすること、このイメージを持つようにすることです。

導体とは、「熱・電気を伝えやすい物体。伝導体。良導体。例えば金属など。」と定義されるようです。

僕の考えているイメージは、自分が、AさんからBさんへ何かを渡す良導体だと思うようにするということです。

何かをしてあげたいという人と、それをしてもらいたい、という人をつなぐ。

何かをあげたいという人と、それを得たい、という人をつなぐ。

そこにある情報を、それを知りたいと思っていたが知らなかった人に知らせる。

自分が何かを停滞させない、というイメージを持つようにしています。僕のところで何かが止まってしまっている、というのが最悪だと思っています。

仕事をしよう、と思うときにまず最初に考えるのは、誰が何を欲しがっているか、です。誰も何も欲しがっていない、と思うとき、僕のその日の仕事はおしまいです。

大抵は、沢山の人が色々なものを欲しがっていることを思いつきます。

そして、その欲しがりの中で、(要求と言ったり、デマンドと言ったりしますが)どれから手を付けるか優先順位をつけて、集中力が途切れるまでそれを一つずつ扱っていきます。

その人が欲しいものは、僕が自分で何かを考えて文章を書いたりファイルを作成すれば済むことなのか、誰かに依頼しなければならないものなのか、そこで分かれます。

Aさんが欲しいものをBさんに依頼する場合、Aさんは具体的にどんなものを欲しいのか、なぜ欲しいのかということがBさんにきちんと伝わるように依頼します。そしてそのBさんの作業は、僕がAさんに渡すために欲しいものでもあります。ですから、僕からの希望でもあることを伝えます。

この例から言える大切なことは、「Aさんが欲しいもの」を説明しているように見えますが、実はこれは、「Bさんが欲しいもの」を届けているということです。

Bさんには作業依頼をしているだけなのに、どうしてBさんの欲しいものを届けているのでしょうか?

それは、人間には承認欲求というものがあるからです。

「私たちが作れないもの、持っていないものを、あなたに依頼したい。これは、Aさんと私からのお願いです。」という依頼は、Bさんの承認欲求を満たすものになります。

この話が断られるかやってくれるかはさておき、お願いをするということは、ひとつの「欲しいものの受け渡し」なのです。

「こんなお願いしたら断られるんじゃないか」って人は思いますが、人から何かをお願いされるというのは、普通の大人なら大抵は嬉しいものです。

もちろん、お願いの仕方が無礼だったり、ただ単に自分がやりたくないことを押し付けるようなお願いの場合、簡単に人間関係をぶっ壊すことになるということは一応付け加えておきます。(言わなくてもわかるとは思いますが)これは、自分でやりたいけど自分にはできないことを、お金などの対価もきちんと払いますからやっていただけないでしょうか、という依頼のことです。

Aさんが欲しいものを、Bさんに依頼した時に、まずBさんは嬉しく感じる。そして作られたものをBさんからAさんに届けた時に、今度はAさんが嬉しく感じる。そうやってAさんとBさんの嬉しい気持ちを企画できて、それに携わった僕はすべての嬉しさをそのまま感じることができる。これが僕の仕事の全てと言っても過言ではありません。

まぁ、納期の希望、金額の希望の調整とか、簡単ではないことも勿論ありますが、それを乗り越えていくのもまた、仕事のうちです。

昔はAさんが欲しいものに気づく力が弱かった。また、Aさんの欲しいものが分かっても、それを作れるBさんを見つけたり、Bさんに上手にお願いすることができなかった。そういった20代30代前半を過ぎて、いろんな仕事ができるようになりつつある自分をとてもうれしく感じる瞬間が時々あります。

何回か書いたことのあるテーマでしたが、改めて書かせてもらいました。

これからも、良導体であれますように。