嫌われる勇気(アドラー心理学)と7つの習慣(スティーブン・コヴィー)

誰しも幸福でありたいと願います。「私を幸せにして」とか,「幸せをつかんでやる」とか,とてもよく見かける表現です。それは今があまり幸せではないことを含んでいる場合があります。

幸福であることを学び取ろうとすると,大抵「与えることだ」という結論にたどり着きます。そして私はこのことについて納得しています。

このことを上手に教えている本が2冊あります。それは「嫌われる勇気(アドラー心理学)」と「7つの習慣(スティーブン・コヴィー)」です。この2冊のことならよく知っているよという方には,あまりこのエッセイは役に立たないかもしれません。それどころか,「その程度の事を解説したって役に立たないよ」とすら思われるかもしれません。しかしそれでもいいのです。私にとってこの2冊が果たす役割は本当に大きいですし,それを自分の脳にしっかりと刻んでおきたいのです。アウトプットは最高の学習です。でも同時に,これまでそんなこと知らなかったよという方に良質な情報を紹介することになれば幸いです。例えば,何だか学校も家庭でもうまいこと対人関係が作れないなあと思う学生とか,就職したはいいけど会社の人間関係って面倒だなあとか,そういう人たちに役立ったらと思います。

まずこの2冊は,「幸福とは与えることだ」という点で共通しています。また,そのために「自分が他人に与えられる何かを持つ」必要があり,そのために「自分と他人に対する正しい分析と見方が必要」という同じような流れを持っています。

では,これら2冊の違いはどんなところにあるでしょうか。

「嫌われる勇気(アドラー心理学)」には,自分のやりたいことをして幸福を味わうためには,必ず誰かに嫌われる必要があるという現実を率直に書いています。このあたりは,「7つの習慣」にはあまり書いていないことです。そして,自分の問題と相手の問題を切り離せるようになること,それは難しいがとても大切だという点に言及しており,人間関係の作り方の調整においては「嫌われる勇気」の方が分かりやすいと感じました。

そして,どのように他の人に与えていくのかという方法論についても,この2冊には違いがあります。「7つの習慣」では,「はしごをかけてからそれを上る」という計画と実行という方法を明確に述べます。具体的な方法論にも言及されていて,「自分の役割を書き出して,それぞれにできることを書いてみて,それを実行する。できたことを分析する」ということを推奨します。その点において「嫌われる勇気」では,「人生は線ではなくて,今一瞬の点でできている。今にすべてを集中すると,過去も未来もない」という書き方をしており,計画と実行よりは,その瞬間の集中力で与えられることを見つけて実行していく,という提案をしています。

これにはどちらも一長一短があると感じます。しっかりと他人と自分の違いを見極めることができるようになって,他人に何かを与えようと動き出す時に「計画して実行し,チェックして修正する」という方法を採用するのか,「常に今できる最善を見つけて実行する」というやり方がいいのかということです。計画と実行って,必ずうまくいかない部分があって,それに妥協しないといけないんですね。計画が足りなくて,「もっとできるんだけど,あと何をしようか」ってなるかもしれないし,計画が多すぎて「全部はできないなあ」って思うこともあるし,計画を実行中に「あ,他の事が本当はしたい」と考えが変化する時も多々あります。そことの折り合いをつける精神力が必要。

じゃあそれで計画をしないでおいて,「常に最善を見つけて実行」という方法はよさそうに見えるんだけど,やっぱり人って楽な方に流れちゃうところあるから,ある程度やることを決めておかないと一日中お昼寝しちゃうっていうこともあるわけです。鮒谷周史さんは,「人との食事会をどんどん予定することでリズムを作る」っていう方法論とか持っておられますしね。

私としましては,こんな結論で大変恐縮ですけれども,どちらの本にも通じることが一番だと思います。他人と自分をしっかり切り離すという意味で「嫌われる勇気」を読み,他人との協業や違いを見つけて与え続けるための方法論として「7つの習慣」を読むのが良いのではないかと思います。でも,いろいろ考えすぎないで,精神力を鍛えるために,ちゃんと運動したり,沢山寝たり,美味しいものを食べるっていうことを忘れたくないですね。

幸せは他人からもたらされるものではなく,他人に与える時に感じられる。いつも,いつまでも。そしてそれは自分を失くして他人の思うとおりに生きるのではなく,自分の意志によって敵を作りながらも歩んでいく道である。

日本を外から見てみたい好奇心

人は主体性を発揮している時に満足があることを僕は確信しています。満足とは幸福と言い換えることもできることでしょう。人は幸福を求めます。そして,もちろん僕も幸福でありたい一人です。

主体性の発揮を私なりに定義すれば,「やりたいことを,周りに迷惑がかからないようにしながら,他の人と協力しながら,やる」ということです。

やりたいことをやるためには,抵抗するものを避けなければなりません。「俺だってやりたいことができていないんだから,おまえだって我慢しろ」とか,「みんなそんなことやっていないんだから,あなたもやめなさい」とか,「俺の言いなりになれ」とか,「それをするなら,痛い目にあうぞ」とか,「何を手放すことになるのかわかっているのか」とか,そういったしがらみをくぐり抜けなければなりません。

しがらみをくぐるのはやめてしまって,しがらみにとどまり続けることも一つの決定であり,一人の人生です。ぐっとこらえる時に得られる幸福ももちろん有ることでしょう。

僕にとってそのしがらみとは,日本のシステムでした。強いヒエラルキー(縦社会)の存在は,枠から飛び出さないでいることや,上位の人間を立て続けることを強要します。そして,その忍耐と引き換えに,所属欲求が満たされ,対価が得られる仕組みになっています。

その仕組みに本当に納得して,人生すべてをそれにコミットするのかどうか,考えていました。そして今の日本では,自分の主体性を思うように発揮できないという結論に至るようになりました。

村上春樹はエルサレム賞を受賞した時に,人間が作ったシステムに卵のような人間が殺されようとするなら,システムにではなく卵の側に立ちたいと述べました。

僕はその言葉がすっと胸に落ちたのです。殺されるまでシステムに立ち向かうのではなくて,自分の命という卵を大切にしたいと。そして自分の命という卵を大切にした時にこそ,他の人の役にも立てるようになるに違いないと。

日本という国を外から見てみたいと言ってしまえば,随分大げさに聞こえることでしょうが,それが偽らざる正直な気持ちです。そしてそれは,日本のあらゆるところに在る悪い意味での日本ヒエラルキー文化に縛られたまま主体性の発揮に苦しむことをやめようと思った,という言い方にもなります。海外から日本人の優秀さを評価できる人でありたいと思いますし,日本のヒエラルキーが将来破壊される時が来るなら,その破壊者の一人に名を連ねたいと思っています。

今までの日本のまま,日本が続くことは難しいことでしょう。おじいちゃんとおばあちゃんばかりの国になって,必要とされるサービスは次々に変化していきます。世代間の人口数の差がどんどん明らかになってきて,労働者の人口比率が変化していきます。海外からの労働者をたくさん迎えることになるのでしょうか。労働は次々にシステムに取って代わることになるのでしょうか。

これから日本に必要になる沢山のサービスや労働に,他国との関わりは深まっていくことでしょう。そして,日本の持っている技術が,今の日本には必要がなくなりつつあり,他の国でこそ必要になることがわかってくることでしょう。

日本人としてアジアとつながる。アジア人として,アラブや欧米とつながる。まだまだ何十年も続く自分の人生に,そういった活動の場があったなら嬉しいと単純に思います。それはまさに,自分の主体性を発揮することです。

そんなことを考えてミャンマーにやってきました。ここに居るからこそ,考えられるテーマがあります。調べたいと思うテーマが見つかります。

楽しく学び続ける人生に,良い場所を見つけることができました。

他人を変化させる快感とさびしさとの戦い(コントロール欲求と帰属欲求)

誰かを自分の思い通りに変化させることができたなら,気持ちが良いことでしょう。もちろんそんなことをしたら,相手は大きな反感を持つでしょうし,周囲の人たちも良い印象を持たないはずです。

これは理性的に考えればわかることです。そして,そうなりたくありません。しかし実際には自分がそんな裸の王様になってしまっていることがあるものです。

他人を自分のおもちゃのように扱うことができると,自分の感情は満たされます。満たされてしまいます。そして満たすと同時に,相手の感情を奪い去ります。強い反感すら買います。

ここから導き出せる,お互いに気持ちよく過ごせる関係とは,互いに相手をコントロールしようとしないこと,となります。

私が楽しんでいるブログがあるので紹介します。

 自分をたいせつにする心理学
 http://nanahime.blog71.fc2.com/

 今回投稿された記事が,ぴったりと今考えていることにフィットしました。
 http://nanahime.blog71.fc2.com/blog-entry-585.html

この,「誰かをコントロールしたい欲求」と関連して考えるべき欲求は,「誰かと一緒にいて楽しく過ごしたい」という欲求です。一緒にいてもらえるためなら,相手の無理な要求を受け入れてしまいたくなることが,多くの人にはあるのではないでしょうか。

学生ならば,「友達だったら一緒にタバコ吸えるだろ?」や,「お菓子パクってこい」などから始まりますね。大人になると,「一緒に飲みに行こうぜ。別の予定?キャンセルしなよ。あいつと飲むのやめなよ」となります。

断ればおしまい,の簡単な話です。しかし,これが簡単ではないのが実際の所です。誤解を恐れずに言えば,日本文化です。無理を言われたとしても一緒にいたいと願う,断りたくない事情があるものです。そのグループから仲間はずれにされたくはないのです。もしくは,自分が収入を得ることと大きな関係があって,利益のためには従わざるを得なかったりするのです。その人から評価されることによって,未来の良い展開を期待していたりするのです。そしてある場合,ただ友達でありたいと願って,しぶしぶ要求を呑むのです。

相手の弱みを握ってコントロール欲求を人が使い始める時,そこには互いへの依存関係が始まります。

依存関係が深まる時,大抵の場合良くない結末へと向かっていくことでしょう。

最初の入り口でそれに気づいて,関係を持たないことが最善です。そして,一時のさびしさを受け入れる覚悟が必要です。

自分の帰属欲求を満たすためには,精神的に自立して,他の人に何かを与えられる人となり,感情を奪い合わない関係を新たに作ることが理想的です。

もちろん,それが簡単ではないことは百も承知しています。そして,それでもその関係を目指すことが,自分にとっての幸福につながることを私は確信しています。