会話はバレーボールのトス回し/アタック

バレーボールのトス回しって楽しい。みんなで輪になってアンダー、オーバーでボールをつないでいく。ビーチボールで海辺で遊んだりもしますね。この時みんなに嫌われるのは、無謀なアタックを打ち込むことや、あまりにもひどいところへボールを上げてしまう人です。

会話はキャッチボールによく例えられるけど、私は最近バレーボールのトスを回すほうがよりぴったり当てはまると感じるようになった。なぜならゆっくり取って、ゆっくり投げるような時間は、実際の会話にはあまりないと思うからだ。そのテンポと難しさが会話にしっくり来るような感じがする。

みんなで楽しい雑談をするには、バレーボールを丁寧にみんなで回す意識をするのがちょうどいいと思う。時にアタックしてみたりすることもみんなを楽しませるが、適度に行うことが重要だ。取れそうな人めがけて取れそうな強さで打てば大丈夫。これはボケと突っ込みのことをうまく表現できると思う。

とても痛い話だが、私はみんなで楽しいトス回しをしている所で、何も考えないでアタックしていたタイプだと思う。よくよく今までの経験を思い出してみると、みんなが雑談しているところで、自分の意見やら経験などをどばっと話すと、一瞬会話が停止していたことを思い出す。“なんでそんなこというんだ”とは指摘されないものの、親切な人がまた会話をスタートさせるように、ボールを拾って優しくトスを始めてくれていた。その親切にも気づけない残念な人だったなと痛感する。

丁寧なトス回しとは、そこにいる全員にとってどうでもよい話をすることだと定義したい。一人でも何かを尋問されているように感じたり、自分の深い意義ある話を繰り出したりすることがないのが雑談だと思う。誰かの過去か現在か未来を聞きだしたり、自分の過去か現在か未来を深く説明したりしないこと、そのことに意識を集中することによって楽しいトス回しは続いていく。どうでもいいことだから、みんなどうでもいい展開をし続けることができ、くだらない談笑が生まれる。どうでもいいことがすごく重要なのだ。それがコミュニケーションの土台になるんだ。

ある所から、誰かの少し真面目な話に入ったときは要注意。まるでバレーボールをキャッチして抱きしめているようなものだ。みんなつまらない可能性がある。真剣な話をするべき時と場所と状況がある。わきまえる必要性を覚えることができたらよいと思う。しかし、時にその真面目な話はみんなの関心を集めることがある。その場合は、バレーボールを回す雑談は終了だ。アクティブリスニングに突入し、傾聴する。こんどは相手の意見を肯定し、絶対に否定しないことが求められる。そんな時に割り込んだり茶化したりしたら、それもまたひんしゅくを買ってしまうことだろう。そんな真面目な話を引き出すことができるのもまた、雑談が成立しているからこそなのだ。

無謀なアタックを打つのは止めよう。自分への訓戒として。

次男は出世する

最近になってようやくコミュニケーションの重要性の認識が高まってきた。随分と遅いけれど、気が付かなかったよりはましだと考えるようにしている。世の中のあらゆる物事は一人の人が考えて始まる。しかし、物事を進めていくときには当然他の人との関係がスタートする。いかに確固とした自分を成長させていけるのかという段階を経て、必ず次に考慮するのは他の人との良い関係が構築できるか、となる。“人は一人では生きていけない”と本当によく聞く。

コミュニケーション能力!

これは生きていく上で相当重要なパラメーターである。小学校の授業に“会話”という教科をなぜ導入しなかったのか、28歳にして疑問を持つようになった。私がこれまで教えられてきたことは、“きちんとしなければいけない”、“言われたことを守らないといけない”、“無駄話は慎むように”、“宿題を出さなければいけない”、“間違ってはいけない”というようなことだった。

教えられることの中に、“上手に他の人と会話するように”、“そしてそのためにはこうするように”、ということはあまり教わってこなかったと感じる。何も考えないで色々な人と話し、話が続く人は”気のあう人”となり、続かない人は“あわない人”でよいと思っていたきらいがある。これはとんでもない事だと気がついた。これは本当に大事なことだ。ここには、とりわけ性格的な問題と、育った環境の問題が大きい。

ここで血液型の話はやめておこうと思うが、どんどん思いついた方向へ話を持っていくタイプの人同士が対面した場合、盛り上がりすぎたり、何にも会話が成り立たないことがあったりとむらがある。協調性の高い人の偉大さを知る。

会話が常に中心にあった家族で育っていれば、話し続けることには何の抵抗も無いことだろう。そして、会話を楽しむのが苦手な家族で育てば、相応な影響を受ける。何を切り出したらいいのか沸いてこなかったり、上手に相槌を打つのが下手だったりする。

そして、ここが今回のポイントになるわけだけど、兄弟の構成が大きく影響する。年の近い家族。長男はどう頑張っても甘えるのが苦手になり、責任感が強くなる。そして、次男は年上とのコミュニケーションが上手であり、したたかになる。末っ子は甘える傾向が強く、責任を持って動かすことの経験が乏しくなる可能性が高い。

もちろんこれらは断定できるものでもないし、様々なその他の要素が関係することであることはここでちゃんと書いておきたい。ただし、やはりこれらのことを頭に入れておいて前提とするのはとても意味のあることだと思う。

さて、ここで少しだけ角度を変えて、人が社会人になっていく時のことを考えたい。色々な組織やグループの中で自分の役割を持つようになっていく時のこと。そのとき人は、誰しも一度新参者となり、先輩や上司などとの接点が生まれる。学校の部活などですでに学んでいる人たちは多少得意なのかもしれない。どんな人も、目上の存在と一緒になるところからスタートする。

長男にとって、常に自分が率先してきて、自分の責任で物事を動かしてきていた場合、この状況が非常にやりにくいと感じる。任せられれば仕事をこなすのは得意なのに、目上の人と一緒に動こうとした瞬間ぎこちなくなる。そして、会社にいる限り、自分が社長にならない限り、ずっと自分の上司の存在がある。回りとのコミュニケーションがきちんとできるのかどうかは、きちんと与えられた仕事が果たせるかどうかと同じほど重要性があることに気がつく。

これは私が現段階で考えるぶっきらぼうな表現だけれども、100点満点で例えるとすれば、自分に与えられた仕事をきちんと果たせるかどうかの配点は50点だと思う。そして、目上の人間ときちんとコミュニケーションできるかが40点であり、年下とのコミュニケーションが10点としてみたい。

人とのコミュニケーションが苦手な場合、どれだけ与えられた仕事の能力が高くても、50点しか取れない。長男が年下とのコミュニケーションが得意だったら、60点は取れるかもしれない。しかし、目上の人間とのコミュニケーションの40点をカバーすることは、思いのほか重要なのだ。次男にとって、仕事そのものが30点しか取れなくとも、年上との交渉が上手であれば、合計70点は取れる。トータル的に見て、完璧長男タイプより、次男タイプの方が柔軟で評価は高いといえる。“世渡り上手”などと言われ否定的にとられることも多いが、大事なことをきちんとしている正当な評価が与えられるべきだと思う。

次男が出世しやすい、肥沃な土壌があることはごく自然なこと。しかし、私達はこのことを認識して、苦手分野をカバーし、得意分野を伸ばすことで、どんな人であっても充実した仕事やコミュニケーションを楽しめるようでありたい。そしてそれが自分のものにできればと思う。

自分をマネジメントしようとするパラダイム

多くの人が当たり前だと思っていること、パラダイムは時代によって覆される。ちょっと前の時代に生きていれば、地球は平らだし、地球の周りを星が回っていることになる。今ではそんなことを誰も信じない。自分の目で地球が球体で宙に浮いていることを見た人なんてほとんどいないのに。
私達の時代の一つのパラダイムに、自分を管理するべき、というのがある。これは当たり前だと多くの場所で考えられている。一週間の表を作って、そこへやるべきことを投入しなければならないと思い込んでいる人は普通だ。しかし、このパラダイムは崩れるのではないかと推測する。
この土台作りには、小さい頃からの教育が大きな影響を持っている。夏休みになったらどうやって時間を使うか計画しましょう、と課題が出て、それを書く。どこからどこまで寝て、いつ風呂に入って、いつ宿題をやって、いつTVを見て、というものです。どのように宿題をこなしていくか、計画しましょう、1日に何ページ、とかいうものです。
この自分を計画する実績は、多くの場合大失敗に終わります。もちろんちゃんとできる人もいるだろうけど。見たければTVを見る。見続ける。眠くなったら寝る。おなかが空いたら食べる。何かどうしてもマックが食べたくなったらマックに行く。宿題は、しなくちゃだめだなぁ、予定から遅れているなぁ、って思う。でも進まない。いざ宿題をやるのは、しなくちゃならないストレスが最大になった時です。しかもそのストレスと言うのは、宿題をしたくなったわけではなく、宿題を忘れた人になった時に恥をかくから、もしくは好きな女の子に幻滅されるから、もしくは単位が取れないから、というどうしようもない理由であることがしばしばです。
安易ですが、そういった現状から、自分をマネジメントすることにはかなり意味がないと判断できると思います。
この問題は大人になっても抱え続けます。勉強するべき、読書するべきと思うもののできていない自分に勝手に落ち込むことがあるかもしれません。
人は、自分は、自分からしたいと思ったことしか行動しません。心が伴ったところにしか行動がありません。ゆえに、心を無視して行動予定だけ立てても全く機能しません。これが、自分をマネジメントする必要がないということの主旨です。基本的には最近読んだ本で納得して認識が新たになったことの受け売りです。私がひらめいたことではありません。
どんな分野においても言える事がここから引き出せます。どうやって行うか、その方法を力説することはかなりもったいない行為です。人は、自分からしたいと願っていることなら、何とかしてその方法を自分から探し出して覚えるからです。ゆえに必要なのは、なぜ大切か、そうすることにどんな価値があるかです。間違いなく!
その人がそうしたいと願うかどうか、心を動かせるかどうか、そこにフォーカスすることは重要です。そして、自分の心が何を願っているか、そして今後何を願うような心であって欲しいのか、考えることは最重要です。
世の中にはHOWTOが氾濫しています。しかし大事なのは、どうやって実現するかよりも、何を実現させたいのか、という内なる人です。
本当に宿題の価値が認識できていて、学びたいという意欲さえあれば、夏休みの初日から家で勉強をするはずだったのです。宿題が終わろうが、図書館に行って関連する本を読んでいたはずだったのです。
自分に対してリーダーシップを取り、何が大事なことか認識できるよう励まし続けるなら、自分の心を動かすことができます。その後、燃える心が、今日使う時間と明日使う時間を計画します。限られた資源をどうやって使うのか、有効に使うために考えます。そのタイミングで十分です。マネジメントの技術を向上させようとする努力をするのは、生活の上級者といえると思います。
まずは自分に対してリーダーシップを取ること、この鍵を今考えています。
#「何ものにも勝ってあなたの心を守れ」という原則とはこういうことか、という気づきでした。