ある物事や人が、全く違って見えるようになること(パラダイムシフト)

7つの習慣にはパラダイムシフトという言葉があります。この言葉はちょっと分かりにくいです。パラダイム(見方)がシフト(変更)するということですが、日本語に吸収するなら、「見え方の変化」「思い込みの解除」といった表現になると思います。最近面白い話を知ったので書いておきたいと思います。


ある女性が空港で飛行機を待つことになりました。時間があるのでお菓子などを買い、席を見つけてうとうとしていました。ふと時間を見ましたが、まだまだ出発まで時間があります。隣には一つ席を空けて、外国人の男性が座っていました。まぁあまり気にせず、自分で買ったいちごポッキーを食べ始めます。そうしたら、そのいちごポッキーをその外人さんも手を出してきて食べるのです。何て失礼な。私が一本食べる、そうすると、外人さんも一本取って食べる。それが一袋終わるまで続いたのです。袋に入っていたポッキーが奇数だったので、最後の一本はもちろん私が食べました。食べたいなら自分で買えばいいのに。

ようやくゲートが開き、飛行機に搭乗しました。そうしたら何とさっきの外人さんがまた隣の席にいます。なんだかついていません。あまり気にしないようにしようと気持ちを切り替えて、窓の外を眺めていました。

さて、飛行機が離陸して、ベルト着用サインが消えて、これから数時間の空の旅です。何かしようと思い、カバンを開けました。

なんと、そこには「いちごポッキー」があったのです。

どういうこと!?

さっき飛行機を待ちながら空港で食べたポッキーは、自分が買ったものと全く同じものを外人さんが買って席においてあったものを、自分が自分のものだと勘違いして他人のものを食べていたのです。うとうとしていたせいで、ポッキーをカバンの中にしまっていたことを忘れて、そこに置いてあるものが自分のものだと間違えたのです。

何て言うことでしょう。私の持つポッキーの袋に手を出して食べていた外人さんは、「自分のポッキーを勝手に食べ始めた失礼な女性」に何も言うことなく、半分ずつ仲良く食べてくれたのです。しかも、最後の一本まで相手が食べても何も言わずにいてくれて。

ちらりと隣に座る外人さんを見ました。穏やかな顔で眠っています。失礼な人だと思っていたのが本当に恥ずかしい。失礼なのは自分だったのです。

この外人さんへの自分の見方が、最初と最後で本当に大きく変わったのが分かると思います。相手は、何も変わっていないのです。

私たちは、いろんな物事や人を「勘違いしながら」見ています。ある一部分しか知らずに、全体を知らずに好き嫌いを付けていくことがよくあります。というか、それが自然だといえます。しかも、その知っている一部分さえ、何か間違って覚えていたりするのです。

私たちは自分の考え方・見方だけが絶対に正しいなんて、絶対に思わない方が得です。いつも、違った見え方があるはず、本当のことは別にあると思いながら人やモノと接していた方がずっとうまくいきやすくなります。

そして、自分の見方が変化していくことを楽しめるのは素晴らしいと思います。「ああ、やっぱりこれまでの見え方・とらえ方は間違っていた」っていう経験を積み上げながら年を重ねていけるのは素敵です。

一度見え方の変化を経験すると、その後はずっとその人に対してその見え方が自分のものとなります。何を言っているかというと、一回気づけば、後はずっとそれが有効なのです。忘れて元に戻ることはありません。ですから、「一回気づくことができるその機会」「見え方を変化させることができるきっかけ」というのは、とてつもなく貴重だということです。

自分の見方をいつも絶対だと思わないこと、そして、見方を変化させることができる機会を貴重なものだと思って、そのためのコストや手間を惜しまないこと。これは、生活を楽しませる大事な要素だと思います。

パラダイムシフトを、これからも、し続ける。

運動ほど軽視されるコストパフォーマンスの高い活動ってなかなかない。

「定期的に運動をすれば、健康を維持できる。」

これほどみんな知っているのが当たり前で、そして、なかなかできないことってあるでしょうか。

自分を幸福に安定させるためには、4つのことを意識していればいいということを先日書きました。それは、「知力を使うこと(思考停止をしない)」「精神・心を安定させる習慣を持つこと」「人とのつながりを大切にすること」「体調を気遣い、健康であること」の4つです。

このうち4番目の、体調管理と健康管理は、食生活も影響しますが、とにかく影響が大きいのは運動をするかしないかです。

定期的に運動をしていれば、食生活が多少荒れていたとしても、健康はかなり維持できます。まったく運動をしていなくて、やれ調子が悪いと言って年中薬を飲んだりするのはとてももったいないやり方だと思います。私が薬を飲まないというわけではもちろんないんですが、前もって定期的な運動をしていたおかげで、元気で健康が続いているのと、運動をしていなくて、調子が悪くなってから医者にかかって薬を飲むようになるのだと、後者の方がお金もたくさんかかるし、そもそも健康維持できているということがどれほど価値のあることなのかというのは、きっと病気を患うようになってからはっきりと分かるようになるのです。それを後から実感するのではちょっと遅いと思います。先にそうなることを予想しておければ、ちゃんと運動を続けようっていう動機が確保されると思います。

7つの習慣の文を少し引用します。


運動を継続することで得られる最大のメリットは、第1の習慣の主体的な筋肉も鍛えられることだろう。運動を行うことを妨げるすべての要因に反応せずに、健康を大切にする価値観に基づいて行動すると、自信がつき、自分に対する評価や自尊心、誠実さが大きく変わっていくはずである。

運動を定期的にする人はおのずと気が付きますが、運動のメリットは健康だけではないのです。もちろん健康が維持されるだけで十分なメリットがあるのですが、それ以外に「もっと」重要なことが起きるのです。

それは、自分の心や考え方へのプラスの影響です。運動することを決めて、それを実行する。このことは、自分による自分への評価が高まるので、自尊心が保たれ、より心が安定するようになります。

運動をしている間、他人へのイライラや自分に対する不満、未解決の悩み事などをいったん忘れることができます。時には、そういった問題に対して前向きな見方をするきっかけを得たりすることもあります。

また、一人でジョギングや腕立て伏せなどもいいですが、何人かと一緒に運動するようにすると、さらに別のメリットもあります。

私はサッカーをしますが、ここから感じ取れることはとても多いです。

一言でいえばチームプレイということになるのですが、自分が一番うまくて一度もミスをしないということは大抵あり得ません。私は運動神経が並なので、大抵回りに迷惑をかけるタイプです。簡単に説明すると、運動神経がとても悪い人はサッカーをしに来ません。運動神経の良い人がサッカーには多く集まります。自然なことですね。ですから、運動神経が並であるということは、相対的に下手な部類になるということです。

蹴りたいと思う方向に蹴ることができない。出したいと思うところに足が出ない。走り込みたいのにもう走れない。仲間からの信頼が得られないとパスが来ない。ミスをしたときに仲間の失意を感じなければならない。

こういったことが運動中に連続して起こります。普段穏やかに生活していたら、そんなに自分のミスや回りにかける迷惑のことなんて考えないものですが、試合中はずっとそんなことを考えます。これが、とても良いのです。

失敗する人の気持ちがよくわかります。仲間が失敗した時に出る自分の反応がよくわかります。また、あきらめずに挑戦し続けたときに得た得点に喜ぶことができます。これは、普段ではそれほど頻繁に味わうことができないものです。普通の生活の中では「時々」味わうものを、試合に参加することによって「連続して、とてもたくさん」味わうのです。

運動の習慣をこうやって考えていくと、行わないのがどれほどもったいないことなのかわかります。こういった時間を、テレビやドラマやネットでただ全部つぶしてしまうのは機会損失はなはだしいといえます。

運動を定期的に行える環境をいつも大切にしたい。そのための場所や友人。生きている間ずっと。

リーダーシップが求められる時と切り捨てられる時(大久保利通の暗殺)

堺屋太一「日本を創った12人」の一部を引用します。


大久保利通は、その死の直前にはほぼ確実な独裁体制を作っていた。明治初期の日本では、徳川体制に逆戻りするのではないか、つまり強大な独裁者のもとに幕府ができるのではないか、という危惧があった。大久保利通を暗殺したのも、薩摩の殿様を征夷大将軍にして幕府を開き、大久保利通が大老となって独裁政治を布くのではないか、という危機感を抱く者だったという。
日本の歴史には独裁者は少ない。明確なビジョンを持ってリーダーシップを発揮した独裁的人物は、信長にしても大久保にしても、暗殺されてしまった。長い平和な時代を持った日本では、強力なリーダーシップの必要性が少なかったため、特定の人々が独裁化すると嫉妬を招きやすい。

とあります。ここから引き出したいのは、「リーダーシップは、求められる時と、全く求められない、もしくは、否定されて引きずり降ろされる時すらある」ということです。

基本的に私たちはみな、「人からあれこれ指図されること」がそれほど好きではありません。自分の良いと思えることを、自分で決定したいのです。もちろん人によっては、他の人に決めてもらって言ってもらって、その通りにするのが楽でいいな、と思う人もいますが、それはあくまで自分のこだわりのない分野についてであって、こだわる部分に足を踏み入れられると結局それはいやな気分がするものです。

ですから、他人がリーダーシップを発揮して、自分を変化させようとして来るというのは、基本的に良い気持ちがしない、という前提で話を進めたいと思います。

では、他人のリーダーシップが欲しいと思うときは、いつなのでしょうか。平常時ではないことは分かります。平和だったら、変化はいらないのです。しかも、変化をしたくないのです。

そうです。これでわかりますね。平和が壊された時、平和が維持できなくなりそうな時、問題が起きて困っている時、自分ではすぐにそれを解決できないと感じる時、人は他人を求めます。それは保護であったりアドバイスであったりしますが、その中に、「リーダーシップを発揮して、自分を、自分たちを導いて欲しい」という願いが生まれるのです。

有能な、優秀な、できるリーダーは、状況が求めるのです。時代が、求めるのです。そして、平和がやってくると、不要になるのです。

例えば、坂本龍馬は、明治維新前に大きなリーダーシップを発揮した一人と言えるでしょう。これは、黒船がやってきて、日本が動揺し、開国するのか、尊王攘夷の思想で外国人を追い出して鎖国を続けるのかという問題が発生したからこそ、活躍の場が開けました。もしも平和な時期に坂本龍馬が生きていたら、何の功績も後に残すことなく道場の一先生で人生を終えていたに違いありません。

日本に対しリーダーシップを発揮して影響を与えた人として、マッカーサーも上げることができます。この人はとても独特な立場を持った人でした。それは、外国人として日本にやってきて、日本の政治を独裁的に行った人だからです。その活動時間は5年程度(1945.8-1951.4)だったわけですが、とても影響は大きかったと言えるでしょう。これは、戦争に負けて無条件降伏をした日本が、いったいこれからどうやって立ち直ったらよいのかという、国全体がリーダーシップを求めていた時の話です。

リーダーシップが必要になるのは、問題が発生した時である。問題がないときは、できれば他人のリーダーシップに巻き込まれたくない、これが人間の素直な感情だといえます。

では、自分に対するリーダーシップを、自分はどうやって発揮するのかというのを合わせて考えてみると面白いです。「今の生活は平和で悪くないな」と思っているとき、自分に対してのリーダーシップはあまり発揮されません。必要だと感じないのです。しかし、「この先のことを考えると、今何をしないといけないだろうか」とか、「今直面している問題にどう対処しようか」と考える時には、リーダーシップが必要になります。

自分の今後の生き方に対する想像力や思考が働くとき、リーダーシップが作動します。想像不足や思考停止に陥ると、リーダーシップは全く動きません。

まぁ、毎日起きている間中ずっと、「自分に対するリーダーシップ」なんて考えている人がいたら、若干面倒ですね。けれども、自分の行くべき道を、自分で導いていく、これは大切なことなんじゃないかと思います。

これから起きる問題を予測することができれば、リーダーシップは自然と起動するのです。