日本企業のアジアにおける活躍を期待することと,shunのいたEXILE

Cry? 泣いているの? そのわけなら 聞かないけど…それでも
Try いつかかならず 笑いながら話せるような時が来る

Nexus5がやってきて,ようやく快適にスマホが生活に馴染むようになってきて,時代がまた一つ進んだなあと実感します。きびきびとした反応しかり,軽さしかり,液晶画面の美しさしかり。

それで最近,Android音楽プレーヤーとしては傑作と言われるPowerampで色々と音楽を聴く環境を整えようとファイルを整理していました。時々聞きたくなるような懐かしい音楽も入れておこうとコピーして,寝る前とかに楽しみ始めました。

久しぶりにEXILEのsong for youを聴きました。すぐに思ったことは,やっぱりshunというボーカルがとても良いということです。今は清木場俊介ということになるのでしょうが,僕にとってはshunなのです。当時,歌の上手い男性ボーカルに注目が集まりつつあったころだと思います。ケミストリーもその頃でした。色々な歌の上手い人が出てきていたと思います。

でも,ずば抜けてshunが良かった。
atsushiがかすんで見えるほどに良かった。

shunが抜けたEXILEには,ほとんど魅力がなくなってしまった。TAKAHIROというボーカルには特に何も感じない。shunがいた時には,atsushiの良さや回りのダンスにも相乗効果があって,みんなが輝いているように見えたのに,shunが抜けただけで全体が色あせてしまったように感じた。ちなみにTAKAHIROという人に特に悪意を持っているわけではない。見た目もいいし,歌もうまいと思う。しかし,飛び抜けた感性が残念ながら感じ取れないのです。

今は,「EXILE結構いいですよね」なんて誰にも話せない。なんだか今となっては,大人が子供をだますおもちゃみたいなものになってしまった。ダンスも楽曲も歌も,うまそうでいて魅力が伝わってこない。

ここから先はさらに独断的な予測と思考で続けさせていただきます。気分を害したらすみません。

shunのような魅力ある突出した個を受け入れられないことが,日本のグループや集団の典型的なパターンだと思います。shunのEXILE脱退についていえば,二つの言い方があるはずです。それは,「shunが出て行った」か「shunが追い出された」ということです。人は,自分がどうしてもとどまりたい所からは,何があっても離れません。どんなに厳しい条件があっても,いたいところにいたいのです。そして人は,自分がどうしても抜け出たい所からは,何があっても出ていきます。

日本の儒教思想(仮に私が一言で言うと「上司・権力者には絶対に逆らえない文化みたいなもの」)は,突出した人間を潰すようにできています。受け入れて伸ばすような仕組みはありません。能力がある人間は,自分の才能をひた隠しにして上司や権力者から気に入られ,そして「引き上げていただく」ことで自分の立場を作る仕組みになっています。

高校の野球部に1年生で外見が良く運動神経も人並み外れた人間が入ってきた場合,2年と3年はその人間に対して「よくぞわが野球部に来てくれた」ではなく,「お前だけには消えて欲しい」と思うような社会なのです。

shunがEXILEからいなくなることが分かった時,僕の脳裏によぎったのは,EXILEの中で誰よりも目立ち歓声が上がるshunを眺めながら共にステージにいるメンバーのことでした。ドリフターズに新星のごとく現れて子供たちの歓声を引き受けた志村けんを眺める加藤茶のこともふと考えました。

すげー奴が仲間になった時に,それを喜べるのか,それとも妬み潰そうとするのか,これが今の日本に突き付けられている課題だと僕は思います。

「老害」という言葉について考えます。そこから分析して,新しい気付きをみんなで得て,新しい社会を築いていけるのか。

日本は,世界中に日本車を走らせることには成功した。とんでもない品質の車を作って,世界の人たちをびっくりさせることはできた。持っている能力には特別なものがある。日本人のすごさは世界中の人達が理解している。ひょっとしたら日本人よりも分かっている。

しかし例えば,スマートフォンで成功するのはどうやら韓国のようだ。今からSamsungやLG電子には勝てない。どうして日本は負けたのか。僕はSONYやPanasonicや富士通に勝って欲しかった。僕は思う。結局SamsungやLG電子の技術開発が世界一になろうとしている背景には,日本人の力があるのではないかと。SONYやPanasonicや富士通では潰された技術者が,日本企業を飛び出したのではないかと。潰したのは,日本の儒教思想に縛られた上司だったのではないかと。腕のいい技術者を認めることができず,もしくは,見合った額の給料を支払うことができず,失ったのではないかと。

本当に腕のいい技術者は,確かに性格に難があることがある。人間関係を作るのが苦手なこともよくある。しかし,苦手なことや良くない部分を補って余りある才能を,一つの分野に集中させて持っているものだ。

それを見つけて,伸ばして,評価する仕事ができる人がいなければならない。

もしもshunが今でもEXILEにいて,毎年アジアツアーを成功させていて,新曲は日本語と英語と韓国語と中国語で発表されていたらと思う。本当に歌が上手くて,本当にダンスが上手い,そんなグループでいて欲しかった。

僕が知り合った若いミャンマー人男性が楽しそうに音楽を聴いていた。「何を聴いているの?」と質問したら,「2NE1,韓国の音楽だよ」と言った。ミャンマーの女性を見ると,韓流ドラマを楽しんでいることがよく分かる。エンターテイメントにおいても,どうやら韓国に負けることになりそうだ。

僕は日本人の優秀さが失われているとは決して思わない。しかし,優秀さを見つけ,活かしてそれを伸ばす術をみんなが身に着けなければならないとは強く思う。

LINEを作ったのは日本人です。しかし,それはNHNという韓国資本の元に生み出されている。やはりここでも,良いものを見つけてそれを伸ばしているのは日本企業ではない。

日本が様々な分野で伸び悩んでいることには,間違いなく原因がある。そして,多くの場合それは,権力を持っている40代50代60代70代の人たちの思想に関わると僕は考えます。大した仕事をせずに沢山の収入を得ることはまだ許せる。しかし,これから発展しようとする優秀な才能を潰してしまったり,流出させてしまったりすることだけはやめてもらいたい。

そして,世界有数の企業やサービスやエンターティメントがいくつも日本から生まれて欲しい。アジアで活躍して,アメリカやヨーロッパと対等に活動して欲しい。

そして是非とも,「Try いつかかならず 笑いながら話せるような時が来る」ことを願っています。

ナショナルジオグラフィックチャンネルとPlanet XXL

ミャンマーで生活するようになって,skynetというテレビの契約をしました。そうしたら,ナショナルジオグラフィックチャンネルが見れるようになりました。(以下ナショジオTVと呼びます)

日本で見ていなかったチャンネルが,こうやって身近になったりすることがあるんですね。

ある日ナショジオTVにスイッチを回したら,Planet XXLという番組をやってまして,これがなかなか面白い。こいつは世界の巨漢達の日常を追うドキュメンタリーで,アメリカのご夫婦を見せたかと思いきや,インドの青年に場面が移り,最後はメキシコの青年で終わるというものでした。

ぼーっと見てるだけで,世界旅行をしている気分になれるんですね。アメリカ人のおっちゃんは,すさまじい量のパスタをゆでて,美味しそうにたいらげ,10tトラックを仕事で乗り回していました。インドの青年は,カレーをめちゃくちゃ食べてました。

メキシコの青年は,まだ細かった少年時代からの回想シーンがありました。「10歳の時にアメリカに移住したんだ。けれどもそこでひたすらピザを食べて,ソーダを飲んでいたら,入院するほど太ったんだ。そして今はこうやってメキシコに帰ってきて,あまりの肥満でベッドから出ることもできないんだ。足回りの皮膚は壊死してるよ。」っていう下りなんですけど,何とも言えない気持ちになります。

そのメキシコの青年は教会に行って,「僕みたいに太ったら問題だらけだから,みんなは気をつけなくちゃダメだよ」っていう講演をします。まぁ,一人では動けないから,ベッドごと他人に移動させてもらってるんですけど。そして,その講演が終わった後に,ピザ屋に行って,XLのピザを丸めて美味しそうに食べてました。

ナショジオTVがこういった番組を作る目的は知らないけれど,今までにない視点と映像で楽しめました。日本で民放を回しても,こういった面白味はなかなかないですね。

嫌われる勇気(アドラー心理学)と7つの習慣(スティーブン・コヴィー)

誰しも幸福でありたいと願います。「私を幸せにして」とか,「幸せをつかんでやる」とか,とてもよく見かける表現です。それは今があまり幸せではないことを含んでいる場合があります。

幸福であることを学び取ろうとすると,大抵「与えることだ」という結論にたどり着きます。そして私はこのことについて納得しています。

このことを上手に教えている本が2冊あります。それは「嫌われる勇気(アドラー心理学)」と「7つの習慣(スティーブン・コヴィー)」です。この2冊のことならよく知っているよという方には,あまりこのエッセイは役に立たないかもしれません。それどころか,「その程度の事を解説したって役に立たないよ」とすら思われるかもしれません。しかしそれでもいいのです。私にとってこの2冊が果たす役割は本当に大きいですし,それを自分の脳にしっかりと刻んでおきたいのです。アウトプットは最高の学習です。でも同時に,これまでそんなこと知らなかったよという方に良質な情報を紹介することになれば幸いです。例えば,何だか学校も家庭でもうまいこと対人関係が作れないなあと思う学生とか,就職したはいいけど会社の人間関係って面倒だなあとか,そういう人たちに役立ったらと思います。

まずこの2冊は,「幸福とは与えることだ」という点で共通しています。また,そのために「自分が他人に与えられる何かを持つ」必要があり,そのために「自分と他人に対する正しい分析と見方が必要」という同じような流れを持っています。

では,これら2冊の違いはどんなところにあるでしょうか。

「嫌われる勇気(アドラー心理学)」には,自分のやりたいことをして幸福を味わうためには,必ず誰かに嫌われる必要があるという現実を率直に書いています。このあたりは,「7つの習慣」にはあまり書いていないことです。そして,自分の問題と相手の問題を切り離せるようになること,それは難しいがとても大切だという点に言及しており,人間関係の作り方の調整においては「嫌われる勇気」の方が分かりやすいと感じました。

そして,どのように他の人に与えていくのかという方法論についても,この2冊には違いがあります。「7つの習慣」では,「はしごをかけてからそれを上る」という計画と実行という方法を明確に述べます。具体的な方法論にも言及されていて,「自分の役割を書き出して,それぞれにできることを書いてみて,それを実行する。できたことを分析する」ということを推奨します。その点において「嫌われる勇気」では,「人生は線ではなくて,今一瞬の点でできている。今にすべてを集中すると,過去も未来もない」という書き方をしており,計画と実行よりは,その瞬間の集中力で与えられることを見つけて実行していく,という提案をしています。

これにはどちらも一長一短があると感じます。しっかりと他人と自分の違いを見極めることができるようになって,他人に何かを与えようと動き出す時に「計画して実行し,チェックして修正する」という方法を採用するのか,「常に今できる最善を見つけて実行する」というやり方がいいのかということです。計画と実行って,必ずうまくいかない部分があって,それに妥協しないといけないんですね。計画が足りなくて,「もっとできるんだけど,あと何をしようか」ってなるかもしれないし,計画が多すぎて「全部はできないなあ」って思うこともあるし,計画を実行中に「あ,他の事が本当はしたい」と考えが変化する時も多々あります。そことの折り合いをつける精神力が必要。

じゃあそれで計画をしないでおいて,「常に最善を見つけて実行」という方法はよさそうに見えるんだけど,やっぱり人って楽な方に流れちゃうところあるから,ある程度やることを決めておかないと一日中お昼寝しちゃうっていうこともあるわけです。鮒谷周史さんは,「人との食事会をどんどん予定することでリズムを作る」っていう方法論とか持っておられますしね。

私としましては,こんな結論で大変恐縮ですけれども,どちらの本にも通じることが一番だと思います。他人と自分をしっかり切り離すという意味で「嫌われる勇気」を読み,他人との協業や違いを見つけて与え続けるための方法論として「7つの習慣」を読むのが良いのではないかと思います。でも,いろいろ考えすぎないで,精神力を鍛えるために,ちゃんと運動したり,沢山寝たり,美味しいものを食べるっていうことを忘れたくないですね。

幸せは他人からもたらされるものではなく,他人に与える時に感じられる。いつも,いつまでも。そしてそれは自分を失くして他人の思うとおりに生きるのではなく,自分の意志によって敵を作りながらも歩んでいく道である。