匿名を保ちたい願いと書きたい欲求について

僕がエッセイを書くようになってからもう随分と経ちます。windows95が出てホームページを作るのが流行ったころからなので、約20年といったところでしょうか。その間、いくつもの変化がありました。最初は自分で作ったホームページ(perlで作った簡易掲示板のようなもの)に日記をつけているだけでとてつもなく面白く、同じようなことを始めた人たちを見ながら切磋琢磨しながら書いていました。文体の良さ、サイトのデザインの良さ、影響を受けるところはいくらでもありました。別のブログサービスを使ってみたこともあります。けれども結局自作の方が面白くて、改造を重ねた自作サイトでエッセイを書き続けました。

ある時、僕は自分の運営しているサイトを止めなければならない事態に直面しました。これはどうしようもないことだったのです。調子に乗って自分の本名を明かしていたのが一つの問題でした。けれども今考えてみれば、本名だったからこそ面白かったというのもありました。

とにもかくにも、僕は本当に楽しく続けていたエッセイを書くという趣味を、やめなければならなかった。

やめた瞬間は、特に何とも思わなかった。「ああ、続けるわけにはいかないんだな」と思って、プログラムを停止させた、それだけ。

僕の自作の年表によればそれは2008年11月のことになります。今から7年前のことです。

やめてみて、何だか自分の翼がなくなってしまったような感覚が少しずつ積もっていきました。誰しも自分の感じていることや考えていることを家族や友人に話したり、もしくはこうやって書いたり、違う表現の人もいると思いますが、とにかく発散しながら生きています。大事なことは、自分の得意な形式で表現し続けていくことなんだとつくづく思います。それが詰まってしまうと、精神的にこもるようになります。うまく発散できないでいると、普段の生活はできているのに、いつも慢性的に心にブレーキがかかっているような気持ちになります。例えば、何でも話せる親友がいて、その友達との会話で何でも話せれば心が軽くなっていたのに、突然その友達と会話ができなくなってしまったりするときにそういったことが起こると思います。

僕が思う存分ブログを書けなくなって、そういったことが起こっていました。自分ではきちんと認識できていなかったことが今ならよくわかります。

それでこのブログは2012年3月に始まりました。旧ブログの閉鎖から3年半ぐらい過ぎたころです。僕にとっては再開です。そういった経緯を持っていたので、このブログに課せられた条件は、「匿名であること」でした。hrdtksという名前を使って書くようになりました。

このブログを書き始めて起こっていたことがあります。それは、「周りの人に自分だとわからないように書く」というのは思ったよりもずっと難しい、ということです。

僕がここに書くことは、僕の身近な人が読んでしまえば、とても彼らしい、多分彼だろう、と推測されます。僕はできることなら自分だとわからないようにして書きたい。そうすると、エッセイを書くたびに、「これを書いたらばれるかな」という意識に常に縛られてしまう。そうすると思考はどんどん狭まってくる。面白くなくなってくる。

制限されながら書くというのが一つの面白みなのではないかと思っていたけれど、実際は窮屈さを感じて面白みが減っていて、心があまり軽くならない、ということになってしまっていた。これはよくないです。

最近それがわかってきたのです。こういうことはある程度期間が過ぎないと分からないものですね。

わかった以上、それにどうやって手を打とうか考えるようになってきました。この場所を維持するためには費用も必要なので、楽しくもないものにお金を払い続けるというのは馬鹿馬鹿しい。解約したほうがいい。でも、実名を公開して書くかというと、そんな極端なことをするつもりも、今のところないです。

今考えている落としどころは、身近な人にはばれてしまってもしょうがないから、今よりはもう少しオープンに書いていこうかなということです。僕にとっての本当に楽しい交流は、普段の会話も好きだけれど、よく考えて書いた文章を読んでくれた人から「面白かったよ」と言われることでもあるのです。

実際の会話と言うのは、その瞬間がとても大切で、相手の思考や記憶とのやり取りや、話題の流れに沿っていることなどが求められます。だからこその面白さもあるし、また逆にどん詰まってしまうこともあります。

エッセイだと、話したい話題も自分だけで選べるし、こちらから一方的に組み立てていけるし、時間も自由。言い回しを書き直すことも可能。自分の脳には面白いという刺激があるし、考え中だったことを表現としてまとめることができる。本格的に考えるなら、大学の先生の論文のようなものを目指すべきだという人も出てくるかもしれませんが、あくまでも素人の素人による楽しみと趣味のエッセイです。

けれども、何らか表現をするということは、他人の評価や反応や時には批判をも受けるということになります。
もし表現を何もしないでいれば、他人からの評価や反応や批判を受けなくて済むということにはなります。
けれど、表現をしないでいる守りの自分と、リスクを負って表現をする自分とどちらが好きなのか、楽しいのか、と考えた時に、もうその瞬間に答えは出てくるのです。

7年前にサイトを閉鎖した時に、僕の書いたものを何度も読んでくれた人がいました。読まれることの快感は、いつも変わりません。

「読んだよ」とか「面白かった」とか、反応はたいていとても短い。けれども、その一言でよく分かることがある。僕はそこから大切なつながりを感じ取ります。僕が書いたものを読んでくれた、読めたということは、それなりに面白かったということです。

世の中には、一生かかっても読めないほど無限の本や文章があって、その中で、僕の書いたものを選んで読んでくれた、それも最初の一文で飽きるのではなく、最後まで読んでくれた。これは、僕も読ませるようなモノを書くことができたということです。
これはとても最高な瞬間です。

とりとめのない書き物になってしまいましたが、表現の世界にまた繰り出そうという気持ちをお知らせいたします。