その部屋には、二つの異なる風が吹いています。 窓を開けていようがいまいが、それは避けようのない事実です。
一人はE(外向型)、もう一人はI(内向型)。 彼らが一つの屋根の下で暮らすということは、例えば、一軒の家の中で「真夏の太陽」と「深い森の夜」を同時に飼い慣らすようなものかもしれません。
賑やかな沈黙と、静かな喧騒
夕暮れ時、仕事から帰ってきたEは、まるで道端で拾い集めた色とりどりの石ころをぶちまけるように、今日起きた出来事を話し始めます。 「ねえ、聞いてくれよ。今日駅前で奇妙な象を連れた男を見かけてさ……」
一方のIは、キッチンの椅子に座り、古い文庫本のページをめくる手を止めません。彼は象の話に興味がないわけではないのです。ただ、彼にとっての「帰宅」とは、外の世界で剥き出しになった神経を、静寂という名の温かい包帯で巻き直す作業に他なりません。
Eにとって、会話は「エネルギーの給油」です。 Iにとって、会話は(たとえそれがどれほど親密な相手であっても)「エネルギーの消費」なのです。
境界線の引き方
彼らがうまくやっていくためには、いくつかのルールが必要になります。それは法律のように堅苦しいものではなく、もっと直感的で、ささやかな合意です。
例えば、Iがヘッドフォンをしているとき。それは「今、僕は深い井戸の底に潜っているから、命綱を引かないでくれ」という静かなサインです。Eはそれを見て、やれやれと肩をすくめ、自分の中の話し相手を外の世界(例えばSNSや、電話の向こうの友人)に求めます。
逆に、Eが退屈そうに指でテーブルを叩いているとき。Iは本を閉じ、少しだけ重い腰を上げて、「コーヒーでも淹れようか」と声をかけます。それは彼なりの、外の世界への歩み寄りです。
異なるリズムで刻まれる時間
ある夜、僕は彼らに尋ねてみたことがあります。 「どうして君たちは、そんなに違うのに一緒にいられるんだい?」
Eは冷えたビールを飲み干しながら笑って言いました。 「一人でいると、自分が透明な壁に閉じ込められたみたいに感じるんだ。彼がそこに座って、黙って本を読んでくれているだけで、僕は自分がこの世界に実在しているって確信できる。沈黙にも、重みが必要なんだよ」
Iは静かに答えました。 「彼は、僕が自分一人では決して開けない窓を開けてくれる。そこから入ってくる風は、時々少し強すぎるけれど、おかげで部屋の空気が淀まずに済むんだ」
やれやれ、結局のところ
結局のところ、完璧な人間同士が暮らすよりも、欠けたピースを持ち寄って暮らす方が、人生はいくぶんか風通しが良くなるのかもしれません。
Eが外から持ち帰る新鮮なニュースと、Iが内側で育む深い思索。 それらが混ざり合うとき、部屋には不思議な調和が生まれます。それは、完璧な和音ではないかもしれないけれど、どこか心に響く、少しだけ不規則なジャズの即興演奏のようなものです。
もしあなたが誰かと暮らしていて、相手のエネルギーの向きに戸惑っているなら、まずは静かにコーヒーを淹れてみるのがいいでしょう。 相手が話し始めたら耳を傾け、相手が黙り込んだらそれを尊重する。
世界は広いけれど、結局のところ、僕たちが守れるのはそのくらいの小さな平穏だけなのです。