自分探しでは自分は見つからない

これまでモヤモヤと考えてきたことが文章化できそうなので挑戦してみます。それは、「自分探し」についてです。

この「自分探し」という日本語には興味深い意味が含まれていると思います。デジタル大辞泉には「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。」と説明されていましたが、昔には存在しなかった日本語を定義するというのは難しいことだと感じます。

確かに自分探しには、これまでとは違った生き方や居場所を見つけることが関係していると思いますが、それだけでは説明が足りないと思います。例えば、「自分の長所や短所をもっとよく知ろうとすること」なども入ってくると思います。また、「今の自分に対する物足りなさ」も含まれてくるでしょう。言葉の定義って大変です。

さて、自分探しによくあるパターンとして、「今までの日常ではない、非日常の時間を過ごすことによって何かに気づきたい」というものがあります。例えば旅行に出る。特に観光地に行くのではなくて、インドでバックパッカーをするとかありますよね。また、「これまでとは全く違う環境に飛び込んでみる」というのもあると思います。

これらは、「今までの延長線で物事を考えるのではなく、全く違う観点で自分の生活を向上させるきっかけを得たい」というまとめ方ができるでしょう。これはどれほど有効なのでしょうか。

全く効果がないという断言は当然できません。それが良かった人もいるかとは思います。

しかしながら私の意見として、この考え方はイマイチだと感じます。生活を向上させる方法として今までの延長線で考えないというのはとてももったいないことだと思います。そこらへんを掘ったら温泉が出たとか宝石が発掘されたというのに感覚的には近いです。

今の自分を向上させたい、生活でもっとやりがいを得たい、しっかりとした居場所が欲しい、と思ったときに、今までの自分を捨てて全く新しい生活や場所を突然見つけようとするというのは、かなりリスクの高い、失敗しやすいやり方だと考えます。

自分探しには、「今持っているものではない、今いる場所ではないどこかに希望がある」というニュアンスが少なからず含まれています。

しかし、私が考えますに、超重要な自分探しというのは、「今本当は持っているのに、持っていることに気が付いていないものを再発見し、その価値を認める」ということだと思うのです。

これは、日本語の「有り難い」という言葉に近いものです。有ることが、難しい、ということです。本当なら無くてもおかしくないものが、今の自分にある、自分に与えられている、とてもありがたい。有り難い。この感覚です。

ある人の価値は、一緒にいた時ではなくて、いなくなって初めてわかるといいます。まさにこれです。一緒にいる時にこそ感じるべき有り難さが、離れてしまってから気付く、死んでしまってもう二度と会えなくなってから気付くのです。

自分探しが上手にできるようになれば、今持っている能力、知識、友人、立場、家族、それらがとんでもない価値を持っていることに気づきます。それらはどれだけお金を払っても買えないものなのです。その特別な価値に気が付いて、それを大切にしたいと思うときに、そして、それらを大切にしようとする行動や言葉のひとつひとつが、自分の居場所になり、自分の生きがいになっていくのです。そこに居たいと思えるのです。

デジタル大辞泉の、「それまでの自分の生き方、居場所を脱出して新しい自分の生き方、居場所を求めること。」とか読みましたが、ふざけるなと思います。そんな自分勝手でうまくいく可能性の少ない意味に勝手に定義するんじゃない。日本語を粗末に扱ってはならない。

最後言葉が荒くなってすみません。でもなんか言いたいことがちゃんと書けたから嬉しい。

ある物事や人が、全く違って見えるようになること(パラダイムシフト)

7つの習慣にはパラダイムシフトという言葉があります。この言葉はちょっと分かりにくいです。パラダイム(見方)がシフト(変更)するということですが、日本語に吸収するなら、「見え方の変化」「思い込みの解除」といった表現になると思います。最近面白い話を知ったので書いておきたいと思います。


ある女性が空港で飛行機を待つことになりました。時間があるのでお菓子などを買い、席を見つけてうとうとしていました。ふと時間を見ましたが、まだまだ出発まで時間があります。隣には一つ席を空けて、外国人の男性が座っていました。まぁあまり気にせず、自分で買ったいちごポッキーを食べ始めます。そうしたら、そのいちごポッキーをその外人さんも手を出してきて食べるのです。何て失礼な。私が一本食べる、そうすると、外人さんも一本取って食べる。それが一袋終わるまで続いたのです。袋に入っていたポッキーが奇数だったので、最後の一本はもちろん私が食べました。食べたいなら自分で買えばいいのに。

ようやくゲートが開き、飛行機に搭乗しました。そうしたら何とさっきの外人さんがまた隣の席にいます。なんだかついていません。あまり気にしないようにしようと気持ちを切り替えて、窓の外を眺めていました。

さて、飛行機が離陸して、ベルト着用サインが消えて、これから数時間の空の旅です。何かしようと思い、カバンを開けました。

なんと、そこには「いちごポッキー」があったのです。

どういうこと!?

さっき飛行機を待ちながら空港で食べたポッキーは、自分が買ったものと全く同じものを外人さんが買って席においてあったものを、自分が自分のものだと勘違いして他人のものを食べていたのです。うとうとしていたせいで、ポッキーをカバンの中にしまっていたことを忘れて、そこに置いてあるものが自分のものだと間違えたのです。

何て言うことでしょう。私の持つポッキーの袋に手を出して食べていた外人さんは、「自分のポッキーを勝手に食べ始めた失礼な女性」に何も言うことなく、半分ずつ仲良く食べてくれたのです。しかも、最後の一本まで相手が食べても何も言わずにいてくれて。

ちらりと隣に座る外人さんを見ました。穏やかな顔で眠っています。失礼な人だと思っていたのが本当に恥ずかしい。失礼なのは自分だったのです。

この外人さんへの自分の見方が、最初と最後で本当に大きく変わったのが分かると思います。相手は、何も変わっていないのです。

私たちは、いろんな物事や人を「勘違いしながら」見ています。ある一部分しか知らずに、全体を知らずに好き嫌いを付けていくことがよくあります。というか、それが自然だといえます。しかも、その知っている一部分さえ、何か間違って覚えていたりするのです。

私たちは自分の考え方・見方だけが絶対に正しいなんて、絶対に思わない方が得です。いつも、違った見え方があるはず、本当のことは別にあると思いながら人やモノと接していた方がずっとうまくいきやすくなります。

そして、自分の見方が変化していくことを楽しめるのは素晴らしいと思います。「ああ、やっぱりこれまでの見え方・とらえ方は間違っていた」っていう経験を積み上げながら年を重ねていけるのは素敵です。

一度見え方の変化を経験すると、その後はずっとその人に対してその見え方が自分のものとなります。何を言っているかというと、一回気づけば、後はずっとそれが有効なのです。忘れて元に戻ることはありません。ですから、「一回気づくことができるその機会」「見え方を変化させることができるきっかけ」というのは、とてつもなく貴重だということです。

自分の見方をいつも絶対だと思わないこと、そして、見方を変化させることができる機会を貴重なものだと思って、そのためのコストや手間を惜しまないこと。これは、生活を楽しませる大事な要素だと思います。

パラダイムシフトを、これからも、し続ける。

運動ほど軽視されるコストパフォーマンスの高い活動ってなかなかない。

「定期的に運動をすれば、健康を維持できる。」

これほどみんな知っているのが当たり前で、そして、なかなかできないことってあるでしょうか。

自分を幸福に安定させるためには、4つのことを意識していればいいということを先日書きました。それは、「知力を使うこと(思考停止をしない)」「精神・心を安定させる習慣を持つこと」「人とのつながりを大切にすること」「体調を気遣い、健康であること」の4つです。

このうち4番目の、体調管理と健康管理は、食生活も影響しますが、とにかく影響が大きいのは運動をするかしないかです。

定期的に運動をしていれば、食生活が多少荒れていたとしても、健康はかなり維持できます。まったく運動をしていなくて、やれ調子が悪いと言って年中薬を飲んだりするのはとてももったいないやり方だと思います。私が薬を飲まないというわけではもちろんないんですが、前もって定期的な運動をしていたおかげで、元気で健康が続いているのと、運動をしていなくて、調子が悪くなってから医者にかかって薬を飲むようになるのだと、後者の方がお金もたくさんかかるし、そもそも健康維持できているということがどれほど価値のあることなのかというのは、きっと病気を患うようになってからはっきりと分かるようになるのです。それを後から実感するのではちょっと遅いと思います。先にそうなることを予想しておければ、ちゃんと運動を続けようっていう動機が確保されると思います。

7つの習慣の文を少し引用します。


運動を継続することで得られる最大のメリットは、第1の習慣の主体的な筋肉も鍛えられることだろう。運動を行うことを妨げるすべての要因に反応せずに、健康を大切にする価値観に基づいて行動すると、自信がつき、自分に対する評価や自尊心、誠実さが大きく変わっていくはずである。

運動を定期的にする人はおのずと気が付きますが、運動のメリットは健康だけではないのです。もちろん健康が維持されるだけで十分なメリットがあるのですが、それ以外に「もっと」重要なことが起きるのです。

それは、自分の心や考え方へのプラスの影響です。運動することを決めて、それを実行する。このことは、自分による自分への評価が高まるので、自尊心が保たれ、より心が安定するようになります。

運動をしている間、他人へのイライラや自分に対する不満、未解決の悩み事などをいったん忘れることができます。時には、そういった問題に対して前向きな見方をするきっかけを得たりすることもあります。

また、一人でジョギングや腕立て伏せなどもいいですが、何人かと一緒に運動するようにすると、さらに別のメリットもあります。

私はサッカーをしますが、ここから感じ取れることはとても多いです。

一言でいえばチームプレイということになるのですが、自分が一番うまくて一度もミスをしないということは大抵あり得ません。私は運動神経が並なので、大抵回りに迷惑をかけるタイプです。簡単に説明すると、運動神経がとても悪い人はサッカーをしに来ません。運動神経の良い人がサッカーには多く集まります。自然なことですね。ですから、運動神経が並であるということは、相対的に下手な部類になるということです。

蹴りたいと思う方向に蹴ることができない。出したいと思うところに足が出ない。走り込みたいのにもう走れない。仲間からの信頼が得られないとパスが来ない。ミスをしたときに仲間の失意を感じなければならない。

こういったことが運動中に連続して起こります。普段穏やかに生活していたら、そんなに自分のミスや回りにかける迷惑のことなんて考えないものですが、試合中はずっとそんなことを考えます。これが、とても良いのです。

失敗する人の気持ちがよくわかります。仲間が失敗した時に出る自分の反応がよくわかります。また、あきらめずに挑戦し続けたときに得た得点に喜ぶことができます。これは、普段ではそれほど頻繁に味わうことができないものです。普通の生活の中では「時々」味わうものを、試合に参加することによって「連続して、とてもたくさん」味わうのです。

運動の習慣をこうやって考えていくと、行わないのがどれほどもったいないことなのかわかります。こういった時間を、テレビやドラマやネットでただ全部つぶしてしまうのは機会損失はなはだしいといえます。

運動を定期的に行える環境をいつも大切にしたい。そのための場所や友人。生きている間ずっと。