リーダーシップが求められる時と切り捨てられる時(大久保利通の暗殺)

堺屋太一「日本を創った12人」の一部を引用します。


大久保利通は、その死の直前にはほぼ確実な独裁体制を作っていた。明治初期の日本では、徳川体制に逆戻りするのではないか、つまり強大な独裁者のもとに幕府ができるのではないか、という危惧があった。大久保利通を暗殺したのも、薩摩の殿様を征夷大将軍にして幕府を開き、大久保利通が大老となって独裁政治を布くのではないか、という危機感を抱く者だったという。
日本の歴史には独裁者は少ない。明確なビジョンを持ってリーダーシップを発揮した独裁的人物は、信長にしても大久保にしても、暗殺されてしまった。長い平和な時代を持った日本では、強力なリーダーシップの必要性が少なかったため、特定の人々が独裁化すると嫉妬を招きやすい。

とあります。ここから引き出したいのは、「リーダーシップは、求められる時と、全く求められない、もしくは、否定されて引きずり降ろされる時すらある」ということです。

基本的に私たちはみな、「人からあれこれ指図されること」がそれほど好きではありません。自分の良いと思えることを、自分で決定したいのです。もちろん人によっては、他の人に決めてもらって言ってもらって、その通りにするのが楽でいいな、と思う人もいますが、それはあくまで自分のこだわりのない分野についてであって、こだわる部分に足を踏み入れられると結局それはいやな気分がするものです。

ですから、他人がリーダーシップを発揮して、自分を変化させようとして来るというのは、基本的に良い気持ちがしない、という前提で話を進めたいと思います。

では、他人のリーダーシップが欲しいと思うときは、いつなのでしょうか。平常時ではないことは分かります。平和だったら、変化はいらないのです。しかも、変化をしたくないのです。

そうです。これでわかりますね。平和が壊された時、平和が維持できなくなりそうな時、問題が起きて困っている時、自分ではすぐにそれを解決できないと感じる時、人は他人を求めます。それは保護であったりアドバイスであったりしますが、その中に、「リーダーシップを発揮して、自分を、自分たちを導いて欲しい」という願いが生まれるのです。

有能な、優秀な、できるリーダーは、状況が求めるのです。時代が、求めるのです。そして、平和がやってくると、不要になるのです。

例えば、坂本龍馬は、明治維新前に大きなリーダーシップを発揮した一人と言えるでしょう。これは、黒船がやってきて、日本が動揺し、開国するのか、尊王攘夷の思想で外国人を追い出して鎖国を続けるのかという問題が発生したからこそ、活躍の場が開けました。もしも平和な時期に坂本龍馬が生きていたら、何の功績も後に残すことなく道場の一先生で人生を終えていたに違いありません。

日本に対しリーダーシップを発揮して影響を与えた人として、マッカーサーも上げることができます。この人はとても独特な立場を持った人でした。それは、外国人として日本にやってきて、日本の政治を独裁的に行った人だからです。その活動時間は5年程度(1945.8-1951.4)だったわけですが、とても影響は大きかったと言えるでしょう。これは、戦争に負けて無条件降伏をした日本が、いったいこれからどうやって立ち直ったらよいのかという、国全体がリーダーシップを求めていた時の話です。

リーダーシップが必要になるのは、問題が発生した時である。問題がないときは、できれば他人のリーダーシップに巻き込まれたくない、これが人間の素直な感情だといえます。

では、自分に対するリーダーシップを、自分はどうやって発揮するのかというのを合わせて考えてみると面白いです。「今の生活は平和で悪くないな」と思っているとき、自分に対してのリーダーシップはあまり発揮されません。必要だと感じないのです。しかし、「この先のことを考えると、今何をしないといけないだろうか」とか、「今直面している問題にどう対処しようか」と考える時には、リーダーシップが必要になります。

自分の今後の生き方に対する想像力や思考が働くとき、リーダーシップが作動します。想像不足や思考停止に陥ると、リーダーシップは全く動きません。

まぁ、毎日起きている間中ずっと、「自分に対するリーダーシップ」なんて考えている人がいたら、若干面倒ですね。けれども、自分の行くべき道を、自分で導いていく、これは大切なことなんじゃないかと思います。

これから起きる問題を予測することができれば、リーダーシップは自然と起動するのです。

 

渋沢栄一と岩崎弥太郎に見る組織論。みんなで決めるか、ひとりで決めるか。

#堺屋太一の「日本を創った12人」から渋沢栄一を読んでみたことが題材になっています。

組織論というのはとても面白いと思います。どんな組織が理想的なのかということです。日本人にとって、どんな組織だとうまくいくのかという理想論をみんながそれなりに持っているというのは悪くないと思います。それで喧嘩したら意味がないですが。

すごく大ざっぱに言って組織論とは、「一人のトップがすべてを決め、家来がそれを支持する」というトップダウン方式と、「みんなで考えて、みんなが納得できる方法を採用する」というボトムアップ方式の混ぜ具合です。

独裁国家というのは、一人の人が国の政治をすべて決めていく方法。超トップダウンです。ワンマン社長・ワンマン会社というのもあります。会社にまつわるすべてのことを社長が決めていく方法です。トップダウンに偏ると、とっても良い側面と悪い側面があります。

トップダウンの良いこと、それは、トップの人間の優秀さが思う存分発揮されるということです。どのくらい考えるか、どのような決断をするか、それをトップ一人の一存で決めることができます。他の人に遠慮する必要がありません。仮に世界で一番優秀な人がいるとするなら、その人を組織のトップに置いて、完全なトップダウンを作れば、ほぼ間違いなく他の会社よりも業績を上げることができます。

これを考えれば、トップダウンの悪い面はすぐにわかるはずです。それは、トップの人間の失敗を防ぐことができないということです。一つの決断が、ある意味でうまくいくけど、ある意味では失敗したり被害を被ったりしますが、それをすべて受け入れなければならないということです。高リスクハイリターンといえるでしょう。

ボトムアップの良いこと、それは、みんなで考えるので、切り捨てられてしまう人が少なくなり、組織の決定で失敗する可能性が断然減るということです。最大公約数的な決着を常にします。がっかりする人が少ない方法です。無難な方法です。守備に強い組織といえるでしょう。うっかりミスはほとんどありません。決定するまで時間がかかり、急な変化をもたらさないので、みんながついていきやすいという利点もあります。

ボトムアップの欠点、それはまず何よりも、検討するのに時間がかかるということです。時間がかかりすぎるので機会損失をする可能性があります。さらに、良いアイディアがつぶされてしまって、平凡なアイディアになってしまうことが多くなります。良いアイディアというのは大抵奇抜な側面を持っていて、そのアイディアに対して多くの人の意見を集めようとすると、保守的な人たちから否定的な意見が述べられますので、まわりを驚かせるような一手を打つことが組織としてできなくなります。だいたいいつも他と同じようなアイディアを持つことになります。

日本の企業がどうしてiPodを作ることができなかったか。iPadを作れなかったのか。それは、ボトムアップが強かったからです。Appleにはスティーブジョブズの独裁政権というトップダウンがありました。彼が思う存分会社を動かすことができた。どんなに別の意見が出てきても、彼は「俺の作りたいものはこれだ」といって、こだわりぬき、曲げなかった。その結果として世界を変える製品は生み出されたのです。

日本の明治時代、事業家として名高い、渋沢栄一と岩崎弥太郎がいます。まさにこの二人は、ボトムアップとトップダウンの激突だったと言えるでしょう。渋沢さんは、資本家たちがお互いに資本を出し合い会社を支えあい、業界標準をみんなで作り、商工会を作り、官僚を含めた談合が行われるような下地を作った。みんなで考え、みんなで成長し、弱者を切り捨てない、そういう高度成長の一面を作りました。

岩崎弥太郎は貧乏人から成り上がり、完全なトップダウンの会社を運営し、三菱を築き上げた。

どちらの方が正しいのかという答えが出ないというのは明白です。しかし、僕らは考えるべきです。「どの程度はトップダウンでやるべきか」と、「どの程度はボトムアップでみんなで考えるべきなのか」とです。

これを、最大限大きく広げて考えれば、どこまで民主主義が通用するのかということと、共産主義をどのように混ぜるべきかということにもなります。

最小限まで小さく考えれば、それは自分の決定を、どの程度までは自分で決断し、どういったことに関しては回りの許可を求めるかという線引きでもあります。

決定するためには、「知識:情報収集」と「思考:論理」の二つの側面があります。これをどうやって混ぜるのかということになります。そして、決定するのが組織であろうと個人であろうと、「感情:心」が関係します。これを無視することはできません。

渋沢栄一と岩崎弥太郎は海運事業で正面から戦ったみたいですね。結果としては引き分けみたいです。どちらも赤字になって、会社は統合することになったとのこと。そこでできた会社が日本郵船とのことです。

 

ブログを書く意義(アウトプットがもたらす益)

7つの習慣に次のような文があります。


文章を書くことも、知性の刃を研ぐ効果的な手段である。考えたことや体験したこと、ひらめき、学んだことを日記につけることは、明確に考え、論理的に説明し、効果的に理解できる能力に影響を与える。手紙を書くときも、ただ出来事を書きならべて表面的な話に終始するのではなく、自分の内面の奥底にある考えや思いを文章で伝える努力をすることも、自分の考えを明確にし、相手からわかってもらえるように論理的に述べる訓練になる。


ほとんどの人は、正規の学校教育で知性を伸ばし、勉学する姿勢を身につける。しかし学校を卒業するなり、知性を磨く努力をぱったりとやめてしまう人が少なくない。真剣に本を読まなくなり、自分の専門外の分野を探求し知識を広げようとせず、分析的に考えることもしなくなる。文章を書くこともしない。少なくとも、自分の考えをわかりやすく簡潔な言葉で表現する能力を試そうともしないのだ。その代わりにテレビを見ることに時間を使っているのである。


知性を鍛え、自分の頭の中のプログラムを客観的に見つめることはとても大切である。より大局的な問題や目的、他者のパラダイムに照らして、自分の人生のプログラムを見直す能力を伸ばすことこそ、教育の定義だと私は考えている。このような教育もなく、ただ訓練を重ねるだけでは視野が狭くなり、その訓練をどのような目的で行うのか考えることができなくなる。だから、いろいろな本を読み、偉人の言葉に接することが大切なのだ。

3つ紹介しました。このあたりが、なぜ私がブログを書き始めようかと思い立った動機であり、今もなお書き続けている理由に近いです。

この7つの習慣には、「P/PCバランス」という言葉が出てきます。これも日本人にとっては随分とネーミングが悪く、すっと理解しにくいのですが、本の中の説明によれば、「P:成果(Performance)を得るためには、PC:目標達成能力(Performance Capability)またはそれを可能にする資源が必要になる」などと書いてあります。

言葉はイマイチなのですが、言っていることはとても分かりやすく参考になります。これは、「結果を得ること」と「結果を得るための投資・準備をすること」のバランスをよく考えて優先するようにという提案のことです。そして、いわずもがな、投資や準備に力を入れた方が、最終的に良い結果が得られるということを教えてくれます。すぐに結果を得られるようにと短期的な視野で物事を考えると、大抵失敗することが多いという事実を突きつけます。例えるなら、収穫の時に、こぼれた刃でいくら努力しても刈り取れるものには限界があるので、まずは刃をきちんと磨いてから刈り取れば得るものは大きいということです。

自分の幸福を追求するという大風呂敷を広げたとして、すぐに結果を得ようとする、こぼれた刃で刈り取ろうとすることは、自分の給料をすぐに上げようとする、交渉事で少しでも自分の方が得をしようとする、他の人からの評価をすぐに得ようとする、自分にとって都合のよい友達や配偶者や交際相手を得ようとする、欲しいものをお金を借りてでも手に入れる、そういったことになるかと思います。

逆に、自分の幸福を追求するうえで、すぐに結果を求めるのではなく、投資や準備をするということは何か、7つの習慣では説明しています。次のように4つに分類しています。


哲学者のハーブ・シェパードは、バランスのとれた健全な生活を送るための基本価値として、観点(精神)、自律性(知性)、つながり(社会)、体調(肉体)の四つを挙げている。「走る哲学者」と呼ばれたジョージ・シーハンは、人には四つの役割──よき動物(肉体)、よき職人(知性)、よき友人(社会・情緒)、よき聖人(精神)──があると説いている。組織論や動機づけの理論の多くも、経済性(肉体)、処遇(社会・情緒)、育成や登用(知性)、社会に対する組織の貢献・奉仕(精神)のかたちで四つの側面を取り上げている。


「刃を研ぐ」ことは、自分の人生に対してできる最大の投資である。自分自身に投資することだ。人生に立ち向かうとき、あるいは何かに貢献しようとするときに使える道具は、自分自身しかない。自分という道具に投資することが「刃を研ぐ」習慣なのである。自分自身を道具にして成果を出し、効果的な人生を生きるためには、定期的に四つの側面すべての刃を研ぐ時間をつくらなければならない。

4つとは、「精神:心」「知性:技術」「社会:人とのつながり」「肉体:体調」だとこの本は説明します。これらそれぞれを安定させ、向上させようとすることが、幸福のための良い投資であり、良い準備だということです。これらを大切にする習慣があれば、それが収穫用の刃を磨くことになり、後から来る結果として幸福という実を沢山刈り取ることができるという説明です。私はこれに納得しました。

その中で、知性を磨くという分野に取り組もうとするとき、自分の考えていることを表現する場所が必然的に必要となります。家族や友人や知り合いとのコミュニティの中でそれができれば最高でしょう。何かについて関心を持ち、調べ、考え、まとめ、発表する、この循環が知性を維持し向上するために大切です。

これを個人的に行おうと思ったときに、ブログを書きながらそれをしようという流れに自然になりました。ブログを書き続けることが、自分の知力の安定と向上に役立つだろうと考えたのです。今としては、これは死ぬまで続けたいと思っています。それでこのブログには、「学ぼうを楽しもうを続けようを形にしよう」という副題を付けたのです。

私が考えていることは、この世の中に命を頂いたものとして、自分の幸福を追求することが命を与えてくれた方に対する感謝と礼儀だと思っています。

そして、自分の幸福を追求しようと思って考えていくと、自分に対する正しい投資と準備が必要だということになります。

それは、自分の心と精神を安定させ、知性を磨き、社会とのつながりを大切にし、自分の健康のためにそれなりの努力をする、ということになります。

今回の投稿は、私が持っている基本的な価値観の話になりました。次は渋沢栄一と岩崎弥太郎の話を書こうかと思っています。堺屋太一の本に面白いことがかかれていたので。。