Android 6.0の到来と日本語表示フォントについて

まず率直な感想を言いたいのです。Android6.0、よくやってくれた!とてもいい!!

何がいいって、日本語フォントがとても良くなったのです。調べてみますとこれは、Noto Sans CJK というフォントになったことが分かります。

CJKというのは、C中国語、J日本語、K韓国語という意味です。

Notoというのは、googleがやっているフォントプロジェクトの名前なのですが、このNotoの由来は、「豆腐なし=No tofu」です。ほら、文字化けすると□□□□□となることをご存知でしょう、あの四角を技術者たちは豆腐(tofu)と呼んでいたそうなのです。この問題を解決するため、フォントに取り組む世界規模のプロジェクト名もtofuという日本語から来ているそうです。何だか嬉しい。

Sansとは、サンセリフ(Sans-serif)書体のことを差します。日本で言うところのゴシック体ですね。

ですので、Noto Sans CJKを無理やり字義訳しますと、「世界中から文字化け豆腐をなくそうgoogleの新しいフォントプロジェクト(ゴシック体でやってます)の中国語日本語韓国語セット」ということになります。

その、GoogleがAdobeと共同開発したフリーフォントが、ついにAndroidに採用され、Android6.0から使われるようになったのです。(まずはNexus5がAndroid6.0アップデートできるようになりました。友人のzenfone5はアップロードのお知らせが来ないところからすると、見送られたのかもしれません)

Android6.0のネットの評判を見てみようと思ってどれどれと検索してみたところ、「フォントが見にくくなった」という評判も散見されます。フォントの形は好みもあるから仕方がないですね。僕としては、角が丸いフォントより今回採用されたフォントの方が圧倒的に好きです。将来的には選べるといいのかもしれません。

Android6.0の評判を調べてみたところ、Android6.0にまだ対応していないアプリを使っている場合、困っている人もいるようです。やはり最近のOSアップデートは様子を見てからの方がいいという流れは止まらないですね。

良い評判としては、バッテリーの持ちが良くなったと書かれています。僕はまったく気が付きませんでした。なぜなら、バッテリーの減りが速いのは分かっているので、年中充電するクセがついているからです。長時間外にいる時に様子を試せそうです。

僕はこのAndroid6.0について、一言いいたい。

ついに、ここまで来てくれたかと。

ずーっと、iPhoneにはかなわない、高い値段が払えるならiPhoneの方が絶対にいい、という高い壁と向き合いながら、一度もiPhoneを買うことなく、Android人生を歩んできました。Appleのこだわりぬいた製品の良さは分かるけれども、企業としての考え方が気に入らず、Appleを敬遠して生きてきたのです。

今回、新しくなった綺麗なフォントですいすいとアプリを使ってみて、感じました。思ったのではなく、感じたのです。

これはいい、と。

Android6.0を搭載したNexus5を使ってみて何か文句があるなら言ってみてください。いや本当にたどり着いたんです。

Windows8 or 10 + Android6.0。ネットサービスを気持ちよく使う環境は、いよいよ理想に近づいてきています。ここ20年かけて取り組んできた、人類の(大げさだけど)ネットサービスは、一つの節目を迎えていると言っていいのではないでしょうか。

次は何が来るのか。それを予測するのは簡単です。本当に便利なネットサービスそのものです。どこがそれをつかむのか、Googleか、Amazonか、Appleか、それともその他の会社が上がってくるのか、まだわかりません。分断されているサービスを、本当に便利に統合することができれば、必ずみんなそこに流れ込みます。

そんなサービスの栄枯盛衰を眺めながら、機会があれば僕も何らか携わってみたいと思ったりします。

とっても快適で気持ちのいいネットサービスを使いながら生活を楽しむ時代の入り口に僕らは居る。

匿名を保ちたい願いと書きたい欲求について

僕がエッセイを書くようになってからもう随分と経ちます。windows95が出てホームページを作るのが流行ったころからなので、約20年といったところでしょうか。その間、いくつもの変化がありました。最初は自分で作ったホームページ(perlで作った簡易掲示板のようなもの)に日記をつけているだけでとてつもなく面白く、同じようなことを始めた人たちを見ながら切磋琢磨しながら書いていました。文体の良さ、サイトのデザインの良さ、影響を受けるところはいくらでもありました。別のブログサービスを使ってみたこともあります。けれども結局自作の方が面白くて、改造を重ねた自作サイトでエッセイを書き続けました。

ある時、僕は自分の運営しているサイトを止めなければならない事態に直面しました。これはどうしようもないことだったのです。調子に乗って自分の本名を明かしていたのが一つの問題でした。けれども今考えてみれば、本名だったからこそ面白かったというのもありました。

とにもかくにも、僕は本当に楽しく続けていたエッセイを書くという趣味を、やめなければならなかった。

やめた瞬間は、特に何とも思わなかった。「ああ、続けるわけにはいかないんだな」と思って、プログラムを停止させた、それだけ。

僕の自作の年表によればそれは2008年11月のことになります。今から7年前のことです。

やめてみて、何だか自分の翼がなくなってしまったような感覚が少しずつ積もっていきました。誰しも自分の感じていることや考えていることを家族や友人に話したり、もしくはこうやって書いたり、違う表現の人もいると思いますが、とにかく発散しながら生きています。大事なことは、自分の得意な形式で表現し続けていくことなんだとつくづく思います。それが詰まってしまうと、精神的にこもるようになります。うまく発散できないでいると、普段の生活はできているのに、いつも慢性的に心にブレーキがかかっているような気持ちになります。例えば、何でも話せる親友がいて、その友達との会話で何でも話せれば心が軽くなっていたのに、突然その友達と会話ができなくなってしまったりするときにそういったことが起こると思います。

僕が思う存分ブログを書けなくなって、そういったことが起こっていました。自分ではきちんと認識できていなかったことが今ならよくわかります。

それでこのブログは2012年3月に始まりました。旧ブログの閉鎖から3年半ぐらい過ぎたころです。僕にとっては再開です。そういった経緯を持っていたので、このブログに課せられた条件は、「匿名であること」でした。hrdtksという名前を使って書くようになりました。

このブログを書き始めて起こっていたことがあります。それは、「周りの人に自分だとわからないように書く」というのは思ったよりもずっと難しい、ということです。

僕がここに書くことは、僕の身近な人が読んでしまえば、とても彼らしい、多分彼だろう、と推測されます。僕はできることなら自分だとわからないようにして書きたい。そうすると、エッセイを書くたびに、「これを書いたらばれるかな」という意識に常に縛られてしまう。そうすると思考はどんどん狭まってくる。面白くなくなってくる。

制限されながら書くというのが一つの面白みなのではないかと思っていたけれど、実際は窮屈さを感じて面白みが減っていて、心があまり軽くならない、ということになってしまっていた。これはよくないです。

最近それがわかってきたのです。こういうことはある程度期間が過ぎないと分からないものですね。

わかった以上、それにどうやって手を打とうか考えるようになってきました。この場所を維持するためには費用も必要なので、楽しくもないものにお金を払い続けるというのは馬鹿馬鹿しい。解約したほうがいい。でも、実名を公開して書くかというと、そんな極端なことをするつもりも、今のところないです。

今考えている落としどころは、身近な人にはばれてしまってもしょうがないから、今よりはもう少しオープンに書いていこうかなということです。僕にとっての本当に楽しい交流は、普段の会話も好きだけれど、よく考えて書いた文章を読んでくれた人から「面白かったよ」と言われることでもあるのです。

実際の会話と言うのは、その瞬間がとても大切で、相手の思考や記憶とのやり取りや、話題の流れに沿っていることなどが求められます。だからこその面白さもあるし、また逆にどん詰まってしまうこともあります。

エッセイだと、話したい話題も自分だけで選べるし、こちらから一方的に組み立てていけるし、時間も自由。言い回しを書き直すことも可能。自分の脳には面白いという刺激があるし、考え中だったことを表現としてまとめることができる。本格的に考えるなら、大学の先生の論文のようなものを目指すべきだという人も出てくるかもしれませんが、あくまでも素人の素人による楽しみと趣味のエッセイです。

けれども、何らか表現をするということは、他人の評価や反応や時には批判をも受けるということになります。
もし表現を何もしないでいれば、他人からの評価や反応や批判を受けなくて済むということにはなります。
けれど、表現をしないでいる守りの自分と、リスクを負って表現をする自分とどちらが好きなのか、楽しいのか、と考えた時に、もうその瞬間に答えは出てくるのです。

7年前にサイトを閉鎖した時に、僕の書いたものを何度も読んでくれた人がいました。読まれることの快感は、いつも変わりません。

「読んだよ」とか「面白かった」とか、反応はたいていとても短い。けれども、その一言でよく分かることがある。僕はそこから大切なつながりを感じ取ります。僕が書いたものを読んでくれた、読めたということは、それなりに面白かったということです。

世の中には、一生かかっても読めないほど無限の本や文章があって、その中で、僕の書いたものを選んで読んでくれた、それも最初の一文で飽きるのではなく、最後まで読んでくれた。これは、僕も読ませるようなモノを書くことができたということです。
これはとても最高な瞬間です。

とりとめのない書き物になってしまいましたが、表現の世界にまた繰り出そうという気持ちをお知らせいたします。

珠玉のエッセイ「遠い太鼓」と「37歳という年齢」

私の人生で何度目かの「遠い太鼓」をぱらぱらとめくる機会がやってきました。こんなこと書いたら怒られちゃうと思いますが,私は村上春樹さんの小説はとても苦手です。その世界観とか扱っている人間関係とか,どうも入り込めないんです。

けれども村上さんのエッセイは,とても好きです。その文体と表現力に影響を沢山受けています。最初に出会ったのは「シドニー」というオリンピックの時のエッセイで,そこから「遠い太鼓」にたどり着きました。村上さんが日本を脱出して,「ノルウェイの森」を書いたりしていた海外生活の記録です。

最初の出だしに,「37歳からの3年間の記録だ」ということが書かれています。これを20代の頃から私は何回か読んできたわけですが,今回は随分と読む印象が違います。なぜなら,自分が37歳を過ぎているからです。ずっと先輩だと思っていた書き手が,ついに同世代になった気分なのです。

その人が何歳の時にその本を書いたのか。そして自分が何歳の時にその本を読んでいるのか。それって意外と影響があります。先輩から教えてもらおうと思っているのか,同世代と共感するのか,後輩の文章を読んでいるのか,文章に対する向き合い方がやはり多少変わってきます。これもまた日本人的な文化なのかもしれません。

私はこの「遠い太鼓」を何回も読んで,文章という形で表現することの面白みを知ることになりました。自分が楽しんでいること,嫌だと思っていること,やりたいこと,過ぎてきたこと,言葉にしてアウトプットすることによって自分の脳が整理され気持ちがよくなる,そういうことを教えてもらってきました。まさに私のブログはこの本から教わったことを自分なりに消化した結果として存在しています。

文章を書く気持ちとして村上さんは「基本的には,これらの文章は親しい人々に手紙を書き送るような気持ちで書かれている」と述べています。きっとこれもまた,私の気持ちにちょうどよくフィットしたのだと思いますし,そういう書き方をしたいと思わさせられたのです。

今回は8インチのタブレットにいれたPDFで読んでいます。SONY experia Z3 tablet compactです。文庫サイズの本をこのタブレットに入れて読むというのは新しい読書体験です。

元の文庫サイズよりも一回り大きくなるので,読みやすいです。バックライトなので,本を読むための明るさを確保する必要がありません。重さも対して変わりません。ざらっとした紙の感触だけはなくなってしまうけど,これはとても悪くない。

少し前だったら,結局重さという問題が解決できていませんでした。文庫本よりも重たいと,読んでて腕が疲れるのでやめたくなります。「軽さ」という最後の武器を持った時に,ついにタブレットでの読書が我々の前にやってきたと思います。

PDFはsidebooks(サイドブックス)というアプリで読んでいます。色々と試しましたが読書にはこれが今のベストチョイスかと思います。めくりエフェクト,左開き右開きの選択,分かりやすくて高速なページ移動。悪くありません。PDFの自炊に関しては省略いたします。

それにしても,「遠い太鼓」の文章は何度読んでも飽きることがない。いやもちろん読みたくなる部分や読み飛ばしたくなる部分はあるけど,これは小説ではなくエッセイだからいつでもそういう読み方をします。その時の感情や状況で読みたい部分は変わってくる。その時の気持ちになんだか村上さんの文章は寄り添ってくる。この本に出会ったことに私は感謝を覚えるのです。

この本の中ではなかったと思いますが,村上さんの文章についての村上さん自身の解説の中に,文章の「リズム」について書かれていたことがあったと思います。私はそれをなるほどなと感じました。

文章に流れるリズム,これは本当に大切です。村上さんも大量のレコードを持っていて,クラシックやジャズやロックを聞きまくっています。演奏をするかどうかは知らないけど,大量に聞いてきた音楽,その心地良いリズムがあって,文章を紡ぎだす時に大きな影響を与えている,その感じはとってもよくわかるのです。

音楽と文章,違う分野だけど,深くつながっている。自分にとって気分の良いリズムがあって,しっくりこないリズムがある。

37歳の時の村上さんのリズム感と,今の私のリズム感,なるほどしっくりきます。モノ書きの世界。ただの落書きのような文章があれば,多くの人をうならせる文章がある。

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