世の中の宗教を見分けるカギ

#この投稿は、キリスト教について述べています。別の信仰を持っている方の気分を害さないよう、先にお伝えしておきます。

世の中にはいくつかの宗教があります。もしくは無数の宗教があります。

恐れずに言って、私たちの身の回りでは、「無宗教」や「無神論」がよく見られます。

僕なりに宗教を定義させてもらうと、宗教とは、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という質問の答えを提示するもの、だと思っています。

「無宗教」や「無神論」にとっての、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」という質問の答えとは、「どこからか来たし、どこかへ行く。特に関心はない。」ということになると思います。(大ざっぱに書いたので、自分は違う、という方がおられたらすみません)特に根拠はなしに「亡くなった人がお星さまになって、見守っていてくれるはず」だと思ったりすることも、このような無主教・無神論の一部だと思います。

まず僕がここで述べたいことですが、「人間がどこから来たかに関心はない」という方には、これに続く文章は何も響かないと思います。そういうことはどうでもいいと思っている以上、宗教の説明があっても読む気がしないですよね。しょうがないことです。

それなりの答えを提示している宗教は、次のようなものです。

キリスト教。イスラム教。ヒンズー教。仏教。ユダヤ教。儒教。神道。

これはサイズが大きい順に書きました。2009年ブリタニカ百科事典から引用した数字を大まかに書き入れると、

キリスト教(22億人 33%)。イスラム教(15億人 22%)。ヒンズー教(9億人 13%)。仏教(4億人 6%)。ユダヤ教(1%以下)。儒教(1%以下)。神道(1%以下)。

ということになるそうです。

さて、この中から宗教を選ぶにはどうしたらいいのでしょうか。色々な選び方があります。親がやっていたから、友達がやっていたから、そういう身近な宗教を選ぶこともあると思います。また、本屋さんでいろいろな本を読んで、正しいと思えるものを選ぶ、そういうこともあると思います。

このブログの投稿も、その一助になればと思います。

世界で一番大きい、キリスト教。大きいというのは関わっている人数のことです。まずキリスト教が正しいのかどうか考えてみる、これは妥当な検討ではないでしょうか。まぁ、世界で誰もまだ信じていないとか、ほんの数人が信じている小さな宗教の正しさを調べるよりは、世界で一番大きい宗教がどんなものか調べるのは悪くないと思います。

もちろん私はここで、「世界で一番信じている人が多いから、キリスト教が正しいんです」などと言うつもりはありません。

この投稿の本題にようやく来ました。すみません前書きが長くて。

「人間がどこから来て、どこへ行くのか」その答えを探すなら、自分が納得できる宗教を見つける必要があります。もしまだ宗教に関心を持っていないなら、少々関心を向ける必要があります。そして、納得できる宗教を見つける方法の一つは、キリスト教が信じられるのかどうかをまず検討してみるということです。

今回この投稿では、キリスト教が信じられるのかどうかを検討するカギとして、「イエスキリストは本当に復活したのか(人間として一度死に、再度生きて天に上った)」というテーマを提示したいと思います。

なぜこのテーマを選ぶのかというと、これは私達にとって信じがたい超自然的なこと、不自然なことでありながら、もしこの復活が起きていないとするならば、キリスト教の根幹が壊れてしまう大きな分岐点となるからです。

もしあなたが、キリストが復活していないということを証明できるとするなら、それは世界を変えてしまうほど大きな出来事になります。

ちなみに、イエスが実際に存在したのかどうか、その段階から疑っている方のことはここでは扱いません。他に譲ります。ここでは、存在は当たり前として、復活したと考えることが正しそうな理由を説明することに絞ります。

ではここから、「イエスキリストが復活したと考えるのが正しそうな理由」を説明します。考える順番として、ローマ帝国が西暦313年にキリスト教を認めたという所から始め、そこから過去に戻っていきたいと思います。

ローマ帝国はそれまで、ずっとキリスト教を抑え込もう、なくしてしまおうとしてきました。しかし、キリスト教は無視できないほど大きくなっており、抑え込むよりは利用した方がよいという状況になりつつありました。実際、そのキリスト教が認められた西暦313年以降、爆発的にキリスト教は拡大し、392年にはキリスト教がローマの国教と指定され、キリスト教以外が禁止されるほどの展開となります。

イエスキリストが死んだ年は西暦33年ということが一般的に有力です。証拠は他に譲ります。それが正しいとして、イエスが死んでから280年後にはキリスト教がローマ帝国に認められるほどの影響力を持ち、359年後にはローマの国教指定を受けるという歴史となっています。

ここから確実に言えることは、イエスキリストが地上からいなくなった後、キリスト教は小さくなってしまうどころか、ひたすら拡大を続けて影響力を持ち続けていたということです。

ユダヤ教から嫌がられ、ローマ帝国から目の敵にされ、嫌がらせを何度も受けながら、しぶとく拡大していったキリスト教というのはとても不思議なのです。

そこには、命をかけて布教活動をした弟子たちの存在があります。彼らは、なぜそこまでの行動ができたのでしょうか?

その主な原因が、「イエスが、本当に復活した」ということなのです。

言い換えましょう。もしも、イエスが復活していなかったとすれば、弟子たちが命をかけて布教できるはずがないのです。どうでしょう、人間が、自分の命をかけて何かを行う場合、それを本当に信じていなければできないですよね。

イエスの復活が嘘ならば、命をかける理由などどこにもありません。そのままイエスの存在は忘れ去られるはずなのです。弟子たちにとってイエスが、自分は復活するという嘘をつきただ死んでいった人として、弟子たちはただ落胆し、そこでキリストの教えは終わったことでしょう。キリスト教と呼ばれるようになることもなかったことでしょう。

ある人たちは、キリストの復活について疑いを向けます。「墓の中から遺体がなくなったという出来事も、弟子たちが自分たちで盗み出したのだ。その後弟子たちは、本当は見てもいないのに見たことにして嘘をついているのだ、もしくは幻影を見て復活したと言っているのだ。」と、そういう考えを持つ人たちがいます。

けれども、もしそれが本当だったとして(イエスは実際にはただの人間で、復活などしていなかった)、それを知りつつ弟子たちが嘘をつき、自分の命をかけてキリスト教を確立していくことに、どんなメリットがあるのでしょうか。そして、それが最初の数年間はうまくいったとしても、その後300年近く影響力を持ち続け、拡大をし続けることなど本当に可能でしょうか。

キリストの復活を目撃した人間は500人以上いたと書かれています。その人たち全員で嘘の口裏合わせをし、嘘を基にキリスト教を確立することなど本当に可能でしょうか。

イエスとは、たった3年半の活動をした30代の男性です。仮にどんな良いことを言っていたとしても、本当に確固たる証拠を見せられなければ、大の大人がこぞってその教えに命をかけることなどないのではないでしょうか。

キリスト教の拡大を見る時に、一番自然だと思える結論があります。それは、「人間として活動していたイエスと共にいた時、回りの人たちはイエスに対して疑いが残っていた。しかし、多くの人がイエスが本当に死んだ姿と、復活した姿を見た。それは500人以上に対するもので、疑いようがないものだった。嘘で口裏をあわせたのではなく、ともに驚いた人たちがいた。ゆえに、当時の反対者ユダヤ教やローマ帝国ですら、復活そのものを疑うことはできなかった。イエスが天に昇っていったという奇跡も弟子たちは見たのであり、イエスが特別な存在だということを確信し、それゆえに、命をかけてキリスト教を確立しようとした。」というものです。

その結論から導き出せる、もう一つ自然だと思える考えがあります。それは、「イエスを復活させた存在がある。その存在は、人の命にかかわっている。イエスの命を復活させたわけだから。それは、イエスが祈りで父よと呼びかけた神である可能性が高い。その神は、人がどこから来たのか、どこへ行くのか、その答えを持っていると思われる。」ということです。

今回この投稿では、宗教を見分ける方法としてキリスト教の出発地点について書きました。そしてこのことは、世の中の宗教について考えるのに一つの良いきっかけになると思います。もしこのきっかけに少し関心が沸いたなら、当然、次のような質問が出てくると思います。

今も目に見えない形でイエスが存在しているとしたら、何をしているのか。それは人間と関わりがあるのか。

キリスト教の土台が仮に正しいとしても、ローマカトリックに始まりヨーロッパを形作り、プロテスタントに別れ、アメリカの土台ともなり、様々な枝分かれをしたキリスト教を今どのように考えればいいのか。

その答えはまた別に譲りたいと思います。

長文、お読みいただきありがとうございました。

 

良導体であること(現代版わらしべ長者)

ありがたいことに仕事が忙しいです。

新しい本を読んだりとか、何か考え事をするとかしてブログの投稿をする余裕がありませんでした。いいことかな。

一つイメージがうまく行っているように感じることがあります。

それは、できるだけいつも、誰が何を欲しいのか注意して、そして、その欲しいものを誰が持っているのか見つけ、持っている人から欲しい人へと渡るようにすること、このイメージを持つようにすることです。

導体とは、「熱・電気を伝えやすい物体。伝導体。良導体。例えば金属など。」と定義されるようです。

僕の考えているイメージは、自分が、AさんからBさんへ何かを渡す良導体だと思うようにするということです。

何かをしてあげたいという人と、それをしてもらいたい、という人をつなぐ。

何かをあげたいという人と、それを得たい、という人をつなぐ。

そこにある情報を、それを知りたいと思っていたが知らなかった人に知らせる。

自分が何かを停滞させない、というイメージを持つようにしています。僕のところで何かが止まってしまっている、というのが最悪だと思っています。

仕事をしよう、と思うときにまず最初に考えるのは、誰が何を欲しがっているか、です。誰も何も欲しがっていない、と思うとき、僕のその日の仕事はおしまいです。

大抵は、沢山の人が色々なものを欲しがっていることを思いつきます。

そして、その欲しがりの中で、(要求と言ったり、デマンドと言ったりしますが)どれから手を付けるか優先順位をつけて、集中力が途切れるまでそれを一つずつ扱っていきます。

その人が欲しいものは、僕が自分で何かを考えて文章を書いたりファイルを作成すれば済むことなのか、誰かに依頼しなければならないものなのか、そこで分かれます。

Aさんが欲しいものをBさんに依頼する場合、Aさんは具体的にどんなものを欲しいのか、なぜ欲しいのかということがBさんにきちんと伝わるように依頼します。そしてそのBさんの作業は、僕がAさんに渡すために欲しいものでもあります。ですから、僕からの希望でもあることを伝えます。

この例から言える大切なことは、「Aさんが欲しいもの」を説明しているように見えますが、実はこれは、「Bさんが欲しいもの」を届けているということです。

Bさんには作業依頼をしているだけなのに、どうしてBさんの欲しいものを届けているのでしょうか?

それは、人間には承認欲求というものがあるからです。

「私たちが作れないもの、持っていないものを、あなたに依頼したい。これは、Aさんと私からのお願いです。」という依頼は、Bさんの承認欲求を満たすものになります。

この話が断られるかやってくれるかはさておき、お願いをするということは、ひとつの「欲しいものの受け渡し」なのです。

「こんなお願いしたら断られるんじゃないか」って人は思いますが、人から何かをお願いされるというのは、普通の大人なら大抵は嬉しいものです。

もちろん、お願いの仕方が無礼だったり、ただ単に自分がやりたくないことを押し付けるようなお願いの場合、簡単に人間関係をぶっ壊すことになるということは一応付け加えておきます。(言わなくてもわかるとは思いますが)これは、自分でやりたいけど自分にはできないことを、お金などの対価もきちんと払いますからやっていただけないでしょうか、という依頼のことです。

Aさんが欲しいものを、Bさんに依頼した時に、まずBさんは嬉しく感じる。そして作られたものをBさんからAさんに届けた時に、今度はAさんが嬉しく感じる。そうやってAさんとBさんの嬉しい気持ちを企画できて、それに携わった僕はすべての嬉しさをそのまま感じることができる。これが僕の仕事の全てと言っても過言ではありません。

まぁ、納期の希望、金額の希望の調整とか、簡単ではないことも勿論ありますが、それを乗り越えていくのもまた、仕事のうちです。

昔はAさんが欲しいものに気づく力が弱かった。また、Aさんの欲しいものが分かっても、それを作れるBさんを見つけたり、Bさんに上手にお願いすることができなかった。そういった20代30代前半を過ぎて、いろんな仕事ができるようになりつつある自分をとてもうれしく感じる瞬間が時々あります。

何回か書いたことのあるテーマでしたが、改めて書かせてもらいました。

これからも、良導体であれますように。

不安定の中にある安定

#最近ちょっと英語の勉強お休みしています。頑張りすぎてちょっと疲れたみたい。

これまで何となくわかっていてもやもやしていたことが、さっき頭の中でスッキリしたので文章にします。

僕は安定した調子を求めています。毎日、そこそこ元気で、そこそこやりがいがあれば、もうそれで満足です。それを阻害するものは、大きく分けて二つあります。

それは、外部からの影響と内部からの影響です。

あまりにも回りからのストレスが大きすぎると、調子は悪くなります。耐えられないほどの要求が突きつけられると、ああもうこれ以上は無理だ、と体が不調になります。

食生活が荒れていて、睡眠時間が足りず、運動が不足し、気持ちを落ち着かせる時間もなければ、そもそも自分の中から何もやる気が起きず、不調になります。当たり前か。

ただ、自分の調子はとても良いのに、何だか元気が出ないときがあります。それは「退屈」という表現でも伝わるかもしれません。「なんかやることないな」とか、「なんだか時間が余ったな」という感覚です。時間と元気はあるのにやりたいことがない、というものでもあります。

これですが、外部からの影響が少なすぎる、という可能性もあるのです。例えばお金を十分に持っていて仕事をする必要がなく、実際仕事をしておらず、家族の中での役割分担も持たず、何かの活動に参加して自分の役割を持つこともしていないとすると、こういうことがあり得ます。

十分に成功したアーティスト、ミュージシャン、スポーツ選手、芸能人。宝くじや親の遺産相続でお金を得た人。親の世話を受け続ける引きこもりな方。その他。意外とこういう状況に入る可能性のある人っています。

今、会社か学校かその他の付き合いかは分かりませんが、「何だか組織の中でいろいろと言われてめんどくさいなあ。やめちゃいたいなあ。」と思っていたとします。けどそれって、人間としてバランスを取るのに必要なストレスである可能性は結構高いです。

組織の中であまりにも息苦しくなって自分の健康を損なうなら、その組織からは離れた方がいいです。

けれども、僕らはいつも何らかの組織と関わって、そこから自分の役割を得ていることから、生活の張り合いってものを得ています。組織と付き合うっていうのは、ストレスも多いし不安定なものですが、そこから得られる安定というものがあるのです。

組織に殺されてはならない。しかし、何らかの組織と付き合うことは生きていく上で必ず必要である。組織に利用されている自分を客観的に感じつつも、自分も組織を利用するという意識が大切だと思います。