日本を外から見てみたい好奇心

人は主体性を発揮している時に満足があることを僕は確信しています。満足とは幸福と言い換えることもできることでしょう。人は幸福を求めます。そして,もちろん僕も幸福でありたい一人です。

主体性の発揮を私なりに定義すれば,「やりたいことを,周りに迷惑がかからないようにしながら,他の人と協力しながら,やる」ということです。

やりたいことをやるためには,抵抗するものを避けなければなりません。「俺だってやりたいことができていないんだから,おまえだって我慢しろ」とか,「みんなそんなことやっていないんだから,あなたもやめなさい」とか,「俺の言いなりになれ」とか,「それをするなら,痛い目にあうぞ」とか,「何を手放すことになるのかわかっているのか」とか,そういったしがらみをくぐり抜けなければなりません。

しがらみをくぐるのはやめてしまって,しがらみにとどまり続けることも一つの決定であり,一人の人生です。ぐっとこらえる時に得られる幸福ももちろん有ることでしょう。

僕にとってそのしがらみとは,日本のシステムでした。強いヒエラルキー(縦社会)の存在は,枠から飛び出さないでいることや,上位の人間を立て続けることを強要します。そして,その忍耐と引き換えに,所属欲求が満たされ,対価が得られる仕組みになっています。

その仕組みに本当に納得して,人生すべてをそれにコミットするのかどうか,考えていました。そして今の日本では,自分の主体性を思うように発揮できないという結論に至るようになりました。

村上春樹はエルサレム賞を受賞した時に,人間が作ったシステムに卵のような人間が殺されようとするなら,システムにではなく卵の側に立ちたいと述べました。

僕はその言葉がすっと胸に落ちたのです。殺されるまでシステムに立ち向かうのではなくて,自分の命という卵を大切にしたいと。そして自分の命という卵を大切にした時にこそ,他の人の役にも立てるようになるに違いないと。

日本という国を外から見てみたいと言ってしまえば,随分大げさに聞こえることでしょうが,それが偽らざる正直な気持ちです。そしてそれは,日本のあらゆるところに在る悪い意味での日本ヒエラルキー文化に縛られたまま主体性の発揮に苦しむことをやめようと思った,という言い方にもなります。海外から日本人の優秀さを評価できる人でありたいと思いますし,日本のヒエラルキーが将来破壊される時が来るなら,その破壊者の一人に名を連ねたいと思っています。

今までの日本のまま,日本が続くことは難しいことでしょう。おじいちゃんとおばあちゃんばかりの国になって,必要とされるサービスは次々に変化していきます。世代間の人口数の差がどんどん明らかになってきて,労働者の人口比率が変化していきます。海外からの労働者をたくさん迎えることになるのでしょうか。労働は次々にシステムに取って代わることになるのでしょうか。

これから日本に必要になる沢山のサービスや労働に,他国との関わりは深まっていくことでしょう。そして,日本の持っている技術が,今の日本には必要がなくなりつつあり,他の国でこそ必要になることがわかってくることでしょう。

日本人としてアジアとつながる。アジア人として,アラブや欧米とつながる。まだまだ何十年も続く自分の人生に,そういった活動の場があったなら嬉しいと単純に思います。それはまさに,自分の主体性を発揮することです。

そんなことを考えてミャンマーにやってきました。ここに居るからこそ,考えられるテーマがあります。調べたいと思うテーマが見つかります。

楽しく学び続ける人生に,良い場所を見つけることができました。