雨の降る日曜日の午後、テーブルの上には二つのマグカップと、広げられたままの地図、そして開かれたノートパソコンがあります。
そこでは、ある「旅行の計画」が立てられようとしています。 一人はS(感覚型)、もう一人はN(直覚型)。 同じ目的地を目指しているはずなのに、二人の頭の中に広がっている風景は、驚くほど違っています。
Sのノート:12時14分の急行列車
Sは、まるできれいに磨き上げられた機械の部品を組み立てるように計画を立てます。 彼のノートには、具体的な数字と固有名詞が整然と並んでいます。
「初日のランチは、駅から徒歩5分のところにある創業40年の蕎麦屋に行こう。食べログの評価も高いし、何より十割蕎麦が食べられる。そのあと14時10分のバスに乗れば、チェックインの時間にぴったりだ」
Sにとっての旅行とは、「確かな事実」を一つずつ確認していく作業です。 ホテルのアメニティの内容、電車の乗り換え時間、現地の天気予報。それらのディテールが正確であればあるほど、彼は「自分は正しい場所にいる」という安心感を得ることができます。
Nの空想:そこにあるかもしれない「何か」
一方で、Nはパソコンの画面を眺めながら、全く別のことを考えています。 「ねえ、その蕎麦屋の近くに、古い時計塔があるみたいだよ。なんだか不思議な予感がしないかい? そこで時間を忘れて、あてもなく路地裏を歩いてみるのはどうだろう」
Nにとっての旅行とは、「未知の可能性」に自分を晒すことです。 時刻表通りに動くことは、彼にとっては少しばかり退屈な儀式に感じられます。彼が求めているのは、具体的な蕎麦の味よりも、その街が持っている「空気の揺らぎ」や、偶然入り込んだ路地で見つける「名前のない感情」なのです。
噛み合わないパズル
「路地裏を歩くのはいいけれど、そうすると夕食の予約に間に合わなくなるよ」とSは言います。 「予約なんてしなくても、その時の気分で素敵な店が見つかるかもしれないじゃないか」とNは返します。
Sは「もし見つからなかったら、空腹のまま街を彷徨うことになる」という現実的なリスクを危惧します。 Nは「空腹で彷徨うことさえも、一つの特別な体験になる」という物語的な可能性を夢見ます。
彼らは時々、お互いが別の言語を話しているのではないかと疑いたくなります。 SはNを「足が地に着いていない夢想家」だと感じ、NはSを「カタログをなぞるだけの官僚」のように感じてしまうのです。
やれやれ、結局のところ
でも、不思議なことに、この二人が一緒に旅をすると、案外うまくいったりします。
Sがいなければ、旅は目的地に辿り着く前に燃料切れを起こすか、あるいは予約の取れないホテルの前で途方に暮れることになるでしょう。 Nがいなければ、旅は単なる「効率的な移動の記録」に終わり、心に深く刻まれるような魔法の瞬間を逃してしまうかもしれません。
Sが用意した**頑丈な靴(現実)を履いて、Nが見つけたどこへ続くかわからない道(可能性)**を歩く。 それが、彼らにとっての最良の旅のスタイルなのです。
「わかった、14時10分のバスはあきらめよう。その代わり、次の便の時間だけは調べておくよ」 と、Sはやれやれと肩をすくめながらノートに書き込みます。
「ありがとう。きっとその時計塔の下で、面白いことが起きると思うんだ」 Nは満足そうに、冷めかけたコーヒーを啜ります。
外ではまだ雨が降り続いていますが、地図の上には、彼らだけの奇妙で愛おしい旅路が、少しずつ形を成し始めています。