話す脳と聞く脳

最近のプレジデント(雑誌)に、話す脳と聞く脳についてなかなか分かりやすい説明があったので引用し、私の感じたことをコメントします。

一方的に自分の話ばかりして、こちらの意見は聞こうともしない。話し好きの聞き下手が社会にはあふれているようだ。

「なぜなら、”聞く”よりも”話す”ほうが脳の働き的にはラクだから」と、東京工芸大学で主にビジネスにおけるパフォーマンス学を研究する大島氏は解説する。

「”話す”という行動は、頭に思い浮かんだことをただ言葉にするだけなんです。思いついたことを話せばいいだけだから、大して頭は使わない。一方”聞く”となると、なんの前ぶれもなく降り注いでくる言葉から、相手が言わんとしていることを理解して、納得できることとできないことに仕分けをし、覚えるべきことは覚え、さらに同調したり、意見をしたりする。情報を瞬時に処理しなければならないのです。ですから、人は聞くより話すほうがラクで、話し上手より聞き上手のほうが魅力的には上となるんです」

自由に振る舞う時と、相手に合わせる時の違いをうまく表現していると思います。しかし、この大島さんには悪いけど、この説明は詭弁だと思います。こんな程度の説明を大学のビジネスパフォーマンス学という訳の分からない学科の方がしているようじゃ、何だか心配にもなります。

パッと聞いた感じはあっているように思えます。けれど、もう少し考えたらこれはおかしいです。

「話す」という行為を、思い浮かんだことを言葉にするだけだ、という説明がとても変です。そんなのは子供か幼児です。

話す側にだって、相手がどこまで知識を持っていて、どこまで理解をしているか、すごく考えて話すことがあります。相手に合わせる努力をしているときがある。その場合、その努力がうまく行っていれば、聞く側はすごく楽です。すぐに理解でき、覚えやすく、聞いていて楽しくなります。

その結果として、話すほうがすごく大変で、聞くほうが楽というパターンが出てきます。この説明の全く逆です。

相手に合わせる努力をしようとする時に、脳は結構疲れる。その努力をやめれば、話す側だろうが聞く側だろうが、あまり疲れない。そういうことになると思います。

話す側であろうが、聞く側であろうが、相手のことを思って、親切にすることができるし、そうしないでいることもできる。話しかけるから偉い、聞いているから偉い、そういう単純な説明は人の会話には通用しないはずです。言いたいことを言っているだけの人は嫌われるし、聞いているふりをして全然聞いていない人も、だんだん回りは分かってくる。

今回引用した雑誌の説明みたいなものは、呼ぶなら、自己啓発ジャンクフードとでもいうんでしょうか。

民主主義と資本主義の雰囲気が変化してきた

世の中が変わりつつある。言葉にするのはとても難しいが、変わりつつあることは感じる。

誤解、間違いを恐れずに書けば、

・今までの資本主義のままではダメなので、資本主義が少し変化しようとしている。成長の余白がどんどん少なくなっている。かといって、資本主義に代わるようなやり方は見つからないので多くの人はイライラしている。

・民主主義が、おかしなことになってる。みんなで良い案を出して多数決で決めようとするやり方は一見良さそうだが、そもそもみんなが求めているものがバラバラだし、これだという理想的な解決策がなかなか見つからないので、ただみんなが不満をぶつけているだけになっている。

というようなことです。

ここに関わる大きな要因には、貧しさゆえの移民、母語の使用、自分たちと母語が違う人たちへの見方があると思います。(ちょっと話を広げすぎた感もありますが。)

僕がとにかくここで書いておきたいことは、「母語が違う人たち同士が仲良くするのは、とても難しい。」ということです。これが根っこにあるんじゃないかと。これを前提にして物事を進められれば、確実に問題は減ると思います。しかし、世の中は全く逆に進んでいます。どんどんと母語が違う人たちが同じ国の中に混ざり合うようになっているのです。

少し極端なたとえ話を書いておきます。

もし日本に、中国人と韓国人が今以上に日本へどんどん入ってきて、みなさんの近くに住むようになったらどうでしょうか。そして、日本語はわからない、日本人と同じ給料をくれと騒ぎ出す、そんな事態です。

資本主義は、常に、利益を出すための成長を求め続けます。母語を守ろうとするのではなく、国を超え、人種を超え、とにかく経済を発展させようとする意欲の塊です。「お金がなきゃ何もできないだろう?そのためなら何でもするんだ。」という理屈です。このためなら、母語が違う人たちと付き合うこともよしとし、母語が違う人たちを他国に移動させることも気にしません。

とにかく商品をたくさん買ってくれるならそれでいい。安く働いてくれて利ざやを出してくれるならそれでいい。そういう考え方とセットなのです。

しかし、言語の壁と言うのは、とんでもなく高い。簡単に乗り越えられるものではないのです。母語が違う人たちが近くによれば、確実に問題が起きる。少なくとも、気分の良くないことがよく起こる。

資本主義が、「お金を稼ぐためには、外国人同士がくっつくしかない」と言い、そして、多くの人たちが今、「お金は欲しいけど、外国人とくっつくのはいやだ」と言っている。

今のところみんながお金を稼ぐためには資本主義のままが良さそうだという考えは捨てられないが、資本主義の中にくっついている嫌な部分だけは切り取って捨てたいと思っている。というか、民主主義の中で叫んでいる。(しかし多分切り取れない)

ちなみに僕はこの投稿で、何か政治的なポジションを表明したいということでは決してありません。世の中の変化を僕なりの言葉で書いておきたいと思ったのです。

参考にしたものを上げておきます(ちきりん、フランシス・フクヤマなど)

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20160712

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130325

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080216

http://diamond.jp/articles/-/60471

http://www.nikkei.com/article/DGXZZO81529260T00C15A1000000/

http://jp.wsj.com/articles/SB10001424052702304826804579617641333732478

行動力がもたらすもの(最近の近況と共に)

英語の勉強を少しお休みしていて、回復を待っていました。ちょっと頑張りすぎたみたい。色々なことが後手に回るようになっていて、嫌な感じでした。「もうしょうがないね!」という気分で、無理せずこのところ沢山寝ていました。あとはお風呂入りに行ったりです。

少々気力が戻ってきました。「よしやるか」というこの感じです。これは本当に大事です。これがないと何もできない。

昨日は生まれて初めて人前での通訳をやりました。個人的な橋渡しはやったことがありましたが、ある程度体裁が整った形でやったのは初めてでした。世界中にいる通訳者たちの気持ちをほんの少しだけ、ついに味わいました。僕にこんな日が来るとは。

感想をシンプルに述べます。楽しかった。他の人の話を、聞こうとする皆さんに伝わるように間を取り持つというのは、僕結構好きだということに気づきました。今の言語に取り組んでもうすぐ3年なのですが、長く取り組んできたものが実を結び始めるというのはとんでもない充実感があります。

話し手のテンションとか気持ちってありますよね。それをできるだけ真似したい。ただ字義訳的に変換するのではなくて、話し手の伝えたいことが伝わるようにする、という感覚です。ほんの少しなら意訳もしちゃいます。もちろん、本人が話した単語の訳が分からなくて、簡単な他の単語で説明を補おうとして、結果的に意訳になっちゃう場合も多々あったわけですが。

昨日は本当に、僕が人生でやっていきたいなと思うことが一つ叶った時でした。人生に飽きずに、学ぶことを楽しみ続ける、ということです。このブログもまさにそのためにやっているわけですが、実生活で一つ実感できました。良かった。

ですので、改めて英語に取り組もうと思います。第一言語としての母語なる日本語、そして第二・第三言語にミャンマー語と英語です。

英語に挫折した僕が、第二言語にまずミャンマー語を選んだのは本当に良かったと思います。ある程度基本的な単語が使えるようになった今、日本語が母語の人たちにとって、ミャンマー語なら上達しやすいというのはよく分かります。文法が近いということは、思考は日本語のまま、それをミャンマー語に置き換えていくだけで話せるのです。

英語が母語の人たちがミャンマー語を覚えるのにとても苦労している様子をよく見ます。苦労というのはちょっと印象が違いますね、どちらかというとあんまり本気で覚える気がなさそうな人をよく見ます。もう英語出来るからいいよね、という感じです。ミャンマー人のうち、かなり人は英語ができるから、まあ英語が話せる人を捕まえれば何とかなるか、という感じです。とにかく、英語の文法のままミャンマー語を話そうと思っても無理だから、ハードルが高すぎるんですねきっと。

だから、2年目3年目の日本人はどんどんミャンマー語ができるようになってくる、けど5年たった欧米人はなかなかミャンマー語できるようにならない、そういうことが起きます。(もちろん英語圏の方がミャンマー語に上達することはあります)

日本語以外の言葉をちょっと使えるようになって、改めて、英語も頑張れば可能性があるんじゃないかって、思えてきました。やる気って大事だなあ。

で、ようやく本題です(長っ)。

英語勉強用のkindle本を探していて、遠山顕というNHKラジオ英会話を書いている人の本がよさそうだなと思って選んだりしていたんですけど、その時にとある日本語の本が紹介されました。

その本のタイトルは、「結局、「すぐやる人」がすべてを手に入れる」というものです。著者とこの本に寄せられたコメントを読んで、本自体を読むのはやめました。それほどの価値はないと思いましたので。ただ、このタイトルは秀逸です。コメントの中に面白いものがあります。


すべて読み終わったが、書いてあるすべての中で、題名だけが、一番説得力があった。逆に言えば、題名を読んだら中まで読む必要があったのだろうか?

笑。これすごくよくわかる。中身読んでないけど分かる。

そして、「すぐやる人」でgoogleの検索をかけました。そうしたら、立花岳志さんのブログが上位に出てきました。

http://www.ttcbn.net/no_second_life/archives/40799
「すぐやる人」が最強である件について

これもとてもよく分かります。

ですので、この機会に僕も、「行動することの価値」について書いておきたいと思います。

「思考」と「行動」についてです。これらをバランスよく持つにはどうすればいいのでしょうか。

まず、考えてばかりで行動しない人、もしくは、行動はすごいんだけど思考がとても鈍い人、これらがよくないことは明白です。

順序が関係しますか? 行動が先か思考が先か。これはすごく難しい問題です。行動すると思考が回り出すってよく知られています。けど、思考があって行動があるわけですしね。

私が良く考えていること、それは、時間です。短さ、速さです。

「思いついたらすぐにやる。」 これは、強いです。

長々と考えていても、そのうち集中力が切れて、保留になります。

少し考えて、そしてすぐに行動する。長々と行動するのではなく、少しだけやる。行動を少しすると、思考が回る。

思考 -> 行動 -> 思考 -> 行動 を、短く延々と繰り返すのです。

ミスせずに仕事してくるAさん。けれども反応がいつも遅い。

時々ミスをするけど、どんどん仕事を進めていくれるBさん。ミスもカバーしてしまい、結局仕事は進んでいく。

軽率になれとは思いませんが、どんどん思考を行動に活用できる人は強いです。

せっかくの思考が、自分の心の壁で行動に移せないのは本当にもったいないです。

今回は少々支離滅裂で失礼しました。考えた順に散文させていただきました。