攻撃が最大の防御とは、間違っていると思う

「攻撃は最大の防御」という言葉の元を探してみました。「孫子の兵法」の一部だとか、ラテン語の格言から来ているなど見つかりました。正確な所は分かりません。

なぜ「攻撃は最大の防御」という言葉に関心を持っているかというと、これは大間違いだなあと個人的に確信するようになったからです。

これは主に、「サッカー」「将棋」「人間関係」の3点において考えてきたことの一つの結論です。

それぞれ3つとの関連を述べた上で、まとめたいと思います。

●「サッカー」と「攻撃は最大の防御」の関連

ものすごく強力なFW(攻め手)がいる場合、確かに攻撃を続けているチームは強いです。これだけを見れば、「攻撃は最大の防御」だと言ってもおかしくはないでしょう。

しかし、別の視点も必要です。例えばJリーグには戦術的にとても攻撃的なチームがありますが、このチームがすごく強いとはとても言えません。

攻撃中は魅力的です。鋭いパスと狙いすましたシュートの連発で、見る者を楽しませます。ただ、いつも攻撃ばかりしているチームが常に勝つかというと当然そうではありません。

どちらかといえば、相手に攻めさせてからカウンターをする方が強いのです。丁寧な根拠のない展開ですみません。基本的にサッカーにおいて、弱者が強者と向き合うときには、守備的に耐えてカウンターを狙うというのが標準的な戦術です。

一つ言えることは、丁寧に守っている側は隙があまりないのに対し、攻撃的になっている側は、隙が見えるということです。

●「将棋」と「攻撃は最大の防御」の関連

素人はどうやって王様を詰ませるか、まず攻撃を考えます。飛車道を開けて、角道を開けます。桂馬を跳ねさせます。

中級者以上は、まず守りを考えます。しかも、相手の守り方を見ながら、相手が攻撃しにくい守りを考えます。

将棋で考えるとすごく分かりやすいのですが、一定以上上手になった人たち同士の試合は、「相手のどこの守備がもろいか」の探し合いです。一つでも綻びがあれば、そこを狙います。

つまり、守備がきちんとしていない状態で攻めている人は、攻めが切れたところですぐに大抵負けてしまうのです。

もちろん、守備をあまりしないで攻める戦術もあります。急戦です。しかし、リスクを沢山負った方法です。

●「人間関係」と「攻撃は最大の防御」の関連

他人への不満をこぼすこと、他人の欠点を指摘すること、これは人間関係における攻撃と言っても差し支えないかと思います。

もうこの時点で分かるかと思うのですが、人間関係を作ろうとするときに、「攻撃」はとても高いリスクを背負うものです。

仲の良い人と共通の敵を作って、その人への不満で盛り上がる、これは人とお近づきになるにはすごく手っ取り早い方法です。自分もストレスが溜まっていたら気分が良くなります。

直接本人に向かって欠点の指摘をする人もいることでしょう。言い方は柔らかかったとしても、結局のところは攻撃です。

攻撃をする時、うまくいくと、自分はすーっとします。悪口で友達と親しくなったり、相手の欠点を認めさせたりするときです。大げさに言って全能感を味わうのです。

しかし、他人を攻撃をする時というのは、自分の弱点を公表しているようなことになります。

「他人のこういう所が私は我慢できない」という自分の器を見せているようなものです。

攻撃というのは、弱点や守備の弱さを見せることでもあるのです。

●まとめ

それで私はここで、「攻撃は最大の防御」が間違っているとし、別の言葉を作りたいと思います。

「守備をきちんとすることが最大の防御」です。

圧倒的につまらない言葉です。流行ることも残ることもないでしょう。

しかし、私はこの感覚にたどり着きました。

まず、自分が簡単なミスをしないようにするにはどうすればよいか、大切にしたいです。人間関係において、攻撃は基本的に不要で、使うときというのは本当に限られた時です。

攻撃となる、不満の表明や欠点の指摘は、自分が本当に守らなければならないものが脅かされた時に、作戦を立ててから用意周到に行うべきものだと思います。

まずは守備で、それが十分になったと思ってから、何らかの攻撃を考えるほうが得策です。

物事に対する認識というのは、経験や知識と共にどんどんと変わっていくものだと思います。実感できるのは嬉しいことでもあります。

その表現が自由に行えるこういった場所があることに感謝です。(自分で作ったんだけど)

日本人の優位性をどうやって活かすか

とある外国語の勉強をして、英語を再度やろうと思ってみて、体感で改めてわかったことがあります。

日本人は読解に強い、ということです。どこかの誰かが発信したものをキャッチする能力が高いということです。これは逆に言うと、自分で主体的に考えて発言をするのが苦手だということも暗示しています。他の人が書き記したものを見て、それを何とか読解しようとし、その意図を汲み取ろうとする努力をすることに、日本人はとても長けています。

例えば、鉄の溶鉱炉を作るのに、オランダの書物を解読して、江戸時代に日本人は日本製の溶鉱炉を作っています。まだ日本が英語の文化を拒んでいたころ、許可されていたのは長崎の出島にいたオランダでした。一度信長の時代にカトリックが入ってきましたが、日本人に与える影響があまりにも大きく、不安定になることを恐れて日本は英語圏の人間を追い出しています。オランダは、自分たちがプロテスタントであることを強調し、宗教の影響がないことを説得し、引き続き日本との交流を続けていたのです。

ほんのごくわずかな情報しかないと、何とかその情報から多くのことを知ろうとする。そんな特性が日本人にはあります。より関心が強まるのです。反対に、情報が溢れすぎていて、誰にでも簡単に手に入るようになると、少々関心を失います。

異国の文書。蘭学。日本が何とかしてそこから学ぼうとした。そして、実際に学んでしまった。解体新書、平賀源内、杉田玄白。

他の人が見つけ、考え、書面に書き記したものがあれば、日本人はそれをいつも吸収します。してしまいます。

英語から学ぼうとした明治時代になって、日本で興った大学はその存在そのものが、「他国に英語で存在する情報を、母語の日本語で、ありとあらゆる最先端の情報に触れられるようにする」という目的を持っていました。

これもまた、日本で新たなことを考えるのではなく、世界にある文章化されたものを解読して、日本に土着化させるという作業でした。

日本はこれからも、世界で起きるどんなことでも、書き記された文章さえあればそこから解読を行い、日本語化をし、日本に吸収させてしまうことでしょう。

それは逆に言えば、日本が世界をリードすることの難しさを言っています。

僕はこの2年半で、これまでに会うはずもなかった沢山の外国人と出合ってきました。アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人、タイ人、ベトナム人、中国人、韓国人、スウェーデン人、デンマーク人、ミャンマー人。

彼らの発信力、交渉力、語学力に触れると、日本人というのがいかに世界で浮いているのかがよく分かります。発信側と受信側と言ってもいいほどです。とても日本人は独特なのです。良い意味でも悪い意味でも、他にこういう国民は少ないのです。

NewsPicksというサービスがあります。日本人による、日本語での、ニュースの討論サイトです。僕はそこに、日本人が世界で戦うヒントのようなものを感じます。

2chが日本人の裏側だとすれば、これは日本人の表面です。日本で起きているあらゆること、そして世界で起きているあらゆること、その事実(事実をファクトとか言い換えないでほしい)をまず日本語ですぐに知ることができて、その出来事に対してそれなりに経験と知識がある人たちがどんどん日本語で情報を寄せていくのです。

そうすることで、今起きていることとその分析を日本人はとても素早く共有できます。性格の違いゆえに考え方の方向性はいくつか分かれますが、それでも「無知」をかなり避けることができています。「知らないせいで、間違った見方をしていた」ということが減るのは大事なことです。

出来事が起きる→経験と知識のある人たちが素早く情報を寄せる→妥当な見方が分かる→取るべき方向性が見えてくる→それを日本人が共有する

たぶんこれは、日本人が日本語でやるからうまくいくと思います。英語圏の人たちが英語でやることも、きっと意味はあるでしょう。けれども、こういうことが世界で一番得意なのは日本人だと思われるのです。

僕らは、僕らの得意分野を生かして世界と戦える。

Webサービス開発に関わる人たちの役割の見える化

【翻訳】プロダクトマネジメントトライアングル

とてもわかりやすい資料を読みました。作者のDan Schmidt氏、翻訳をした ninjinkun氏、レビューされたKosuke氏に感謝します。

この資料の肝は、三角形を作ったことです。普通に考えると

顧客 <-> プロダクトマネージャー <-> 開発者

という図を思い描いてしまうものです。それを、以下のようにしたのです。これは本当に素晴らしい。

プロジェクト管理の図示
プロジェクト管理の図示


これで、顧客 <-> 開発者 という関係を表記でき、そこには、SNSとの親和性だとかSEOだとかデザインと言った、顧客側からの開発者への要求を書いています。どちらからどちらに要求されているのか、どちらが欲しがっているのかというのが曖昧ですが、今そこまで突っ込まなくてもいいかと思います。

顧客と開発者に加えてある第3の軸は、「ビジネス」です。これもまた絶妙な表現です。簡単に言えばお金とリーダーシップということになると思います。

例えばお金のことを考えたとすると、開発者にはお給料もしくは予算が必要です。それを支払う顧客もしくは会社があります。ユーザーは、ある場合は無料でサービスを使い、ある場合は開発費を支払います。この図では、ユーザーがビジネスにお金を渡し、ビジネスが開発者にそれを支払うことが図示されています。ユーザーが開発者にお金を払うという構図でもあっているように見えますが、間にビジネスが挟まることにより、役割がより明確になっています。開発者が直接ユーザーと接し、金額の交渉をして、それを得る、というのは個人事業主なら当たり前のことですが、開発者としての役割と営業としての役割はそれぞれ別だと感じます。それがこの図ならすっきりと説明されているわけです。

また、製品の開発リーダーシップという面を考えたとしても、そこにはユーザーと開発者の間に、進むべき道筋を考える人もしくは人達がいるのは自然なことです。これもまた、開発者とユーザーが2人3脚でやってしまう場合がありますが、その間に予算管理をしつつ、開発者の都合とユーザーの都合の調整を図る人が必要です。それもまたこの図には「ビジネス」として示されます。

最初、「ビジネス」の所に、「プロダクトマネージャー」がいればそれでいいのではないかと思いました。けれども、これが「ビジネス」になっているからこそ、色々と表現しやすくなっているのです。

お金を払う側と、お金をもらって作る側、その2軸で考えずに、「快適に便利に使いたいユーザー」、「持てる技術を生かして製品を作りたい開発者」、「世の中のニーズを満たして利益やお金にしていきたいビジネス」という3者にすることで、色々なものが見えてきます。

少々デザインが軽視されている気もします。ユーザーと開発者をつなぐ線になってしまっているからです。その辺りは改善の余地があるかもしれません。

それぞれの3者をつなぐ線も、それぞれ6線あってかっこいいんですが、何かとってつけたような「Market Sizing」とかもあって、何だかもったいないところもあります。

発想はすごく良いので、これをもうちょっと進化させたら、すごくWebサービス開発ってどんなものか、そこに関わる人たちの役割を説明するのにとても分かりやすい図になりそうです。時間があったら僕が挑戦してみようかな。