日本人とイスラムの接点(初心者による記録)

まず初めに断っておきますが、この投稿は専門的なものではなく、自分の無知具合を確認しつつ、少しずつ関心を持てるようになってきた記録を残すものとなります。

イスラムというのは日本人にとってあまりにも遠く、悪く言うと「どうでもいい」というか、「関わりたくない」という存在であることが少なくないと思います。僕もそういう一人でした。けれども、少しずつ少しずつ、イスラムの存在が現実のものとなってきて、自分が生きている間に無視できない存在になるであろうことが分かってきました。それでようやく関心を持てるようになってきた、その程度です。

まず、イスラムの人たちが多い、アラブとペルシャの違いすら分かっていませんでした。「だいたい中東の人」という感じです。イラクとイランの違いもピンと来ない、そんな感じです。

世界人口を70億として、2010年のキリスト教徒は約21億、イスラム教徒は約16億という資料があります。イスラム教徒は出生率が高いので、2050年には同じぐらいになるのではないかという推測もあるようです。

人口が多い、というのは、絶対に無視できない要素です。例えば日本だったら、高齢者が多い、という問題があるようにです。

今、どんどんどんどん、イスラム教の貧しい人たちが、世界中に住まいを探して移住しています。受け入れてくれる国を探して、どこへでも向かっていきます。移住しながらも、どんどん子供を産んで増えていきます。先進国に生きている人たちは、子供は最低限の人数にしたいと思うけれども、将来に期待できない貧しい人たちは、産める限り沢山の子供を作ろうと考える。

やっと住まいを見つけたとしても、良い仕事につくのはまた大変です。仕事がないから、何をするか。元気の有り余っている20代の若者たちに、「何もすることがない」という状態は、とても不健全な事態を引き起こすのは目に見えています。

イスラム国とは、そういう若者を大量に雇用して大きくなっています。やることのないイスラム系の若者を、「住まい、食事、仕事付き」でどんどん受け入れて大きくなっています。そして、軍隊の訓練をして、「唯一の神のために、自分を差し出す」という教育をします。それはテロ部隊になれるということです。

パリでテロが起きてから、この問題は遂に先進国への恐怖という形で目に見えたと思います。911のアメリカから始まるアメリカ対テロというのは、まだ対岸の火事だったけど、今後はだんだん人ごとではなくなってきていると感じます。

日本がイスラム圏の人たちと、今後どういう形で知り合っていくのか、付き合うことになるのか、いくらか想像します。

一番平和なのは、日本と仕事をする人、日本に仕事しに来た人と知り合うということです。もしくは、結婚して日本人の配偶者となって知り合うというパターンです。できたら、それだけであって欲しい。

最悪なのは、日本でイスラムのテロが起きるということです。

今まで、テロがどこで起きても、どうでもいいなと思っているはずです。シリアで起きました、トルコで起きました、バンコクで起きました。「かわいそうに」という状態から、一変に事態が変わります。

さて、狙われたとして、日本はテロを防ぐことができるのか。まず無理でしょう。平和すぎます。去年ドローンが首相官邸に落下した時のニュースの時に、どれだけ日本が平和ボケしているのか、よーく分かりました。

日本は移民を受け入れる方向に変わるかもしれません。そこで、韓国人や中国人やアジアの人々や、イスラムの人たちが日本に入ってくるかもしれません。

どうやってそれを受け入れていくのか、突きつけられてから日本人も考えだすことになりそうです。

アメリカが、「テロと戦う」と言って、元気よくやっていたのは今は昔です。今はもう、少々弱くなってしまったアメリカは、「もう、世界の警察をやり続けるわけにもいきません」という雰囲気になりつつあります。

イスラムを支配しようとしたアメリカは、それに失敗したといえます。というわけで、イスラムは今後、一つの大きな勢力となっていきます。ま、アメリカに支配されたいなんて思う国はどこにもないと思われますが。

身近なイスラムから感じるのもいいかもしれません。インドネシアとマレーシアですね。ジャカルタとバリでも観光しながら、イスラムの影響って何かなあと思うのが手軽で楽しそうだから日本人向きです。

イスラム教とキリスト教とユダヤ教は、同じ神を崇拝していることになります。教えの基本は全く同じです。「唯一の神様だけを崇拝する」ということです。けれども、あまりにも解釈ややり方が違うので、それが同じ神と言い切れるかいうと、かなり難しい問題です。同じ神さまがいて、宗教間が、教えも感情も対立しているって、絶対に納得ができない話です。

横浜や長崎にあるキリスト教会なら素敵な感じがするけど、中東にあるイスラム寺院ていうと、近寄りがたいもの、そんな感じですよね。

宗教問題、言語の壁、人口問題、なんかとっつきずらい、避けれるものなら避けて通りたいモノ、そんな受け取り方をしてきたけど、最近はこういった問題が割と身近に感じられるようになってきたし、自分なりの解釈ができるようになって、少しは興味も沸いてきました。

これは、年を取ったということだろうか。 苦笑。

日本の立ち位置を、そろそろアジアや世界から見るようにしないと

ホリエモンがホームランを打ちました。この人の道徳観念はついていけないところが多いし、発言も礼儀がない時があってすごく残念ですが、得意分野を発揮するとやっぱり一目置かれる人です。

日本はかつてない「安売り」の時代に入った

富裕層に限定すれば、日本は、中国・シンガポール・タイにはもう勝てない。

今日本のGDPはアメリカの約1/4だし、中国の半分以下だし、一人あたりは世界27位の貧しさだ。

と。日本は質が高くて、そして、「安い」と。

わかりやすい。日本にいたらわからないことだけど。

すごくおいしいイタリアンが隣の国で安く食べれるとしたら、旅行に行きませんか?

行きますよね。イタリア人がちょっと眉をひそめようが気にせず食べに行きます。

日本に、中国人と韓国人とタイ人が押し寄せているのは、「質が高くて、安いから。」です。日本は経済活動が停滞してるせいで、給料が上がってないし、物価も上がっていない。そして、昔ながらの高品質、細やかなサービスが当たり前になっている。こんなよいところ、外国人が遊びに来るのは当たり前なんです。

この延長線上に何が起こるのか、イメージできます。

それは、「日本は、海外の下請けになる。」ということです。外注先です。

だって、安くていいものを作れるわけだから、お金持っている人が仕事を発注する相手になります。それは、工業製品だろうが、食品だろうが、様々な分野になるでしょう。

日本はアジアNo.1だった時代に、アジアに工場を作って人件費を抑えたりして成長することはできた。でも、成長率では、常にNo.1であり続けることはできなかった。そもそも、日本はNo.1であり続けるための努力がなされなかった、と言ってもいい。日本の会社は、海外進出して利益を上げるというのがとても苦手だ。車をアメリカに売るとかのいくらかの例外はあるにしても、基本的に得意ではない。

韓国がドラマやK-POPを世界中に売っているように、日本が日本のドラマやJ-POPを世界に売れるだろうか。もう比較にならない。LGやSamsungのように商売できるだろうか。後塵を拝している。

アメリカがamazonで世界中に商売をしているように、楽天が世界で商売ができるだろうか。お話にならない。

googleやappleのようなとんでもない企業が日本から起こるだろうか。SONYに期待するのは今となっては酷な話だ。

日本人は、日本人には商売ができるけど、海外で外国人に商売をするのは下手だ。下手すぎる。リスクを取るのが苦手だし、早い決断をするのが下手だ。だから、日本は経済が停滞している。

日本の中でだけ、うまく回っている。さすがは経済大国日本。外国のことを考えなくても日本の中でだけ物事が回ってきた。これまでずっと。

しかし、これから10年20年と、どんどんどんどん、世界が近くなってくる。アジアの人たちが押し寄せてくる。

突然タイ人がやってきて、すごく流ちょうな日本語で、「これを作ってもらうのにいくらかかりますか?」と言ってくる時代が来る。僕らが外国語を覚えなくても、向こうが日本語を覚えてやってくる。今、どのくらい海外で日本語が勉強されているか少しは知っておくべきだと思う。

先日のシャープ買収なんて、まさにこのことだ。ブログでホリエモンが書いていましたが、これは単純に悪いことではない。シャープの持っている日本人の技術は、高いお金を支払ってでも買いたい、魅力的なものだということです。

ホリエモンは、「買収」という言葉がイメージを悪くしている、「バイアウト」と言うべきだと書いていましたが、それに近いことを僕も感じます。

日本語を大切にしたい僕としては、カタカナ文字よりも、漢字で表現したい。「買収」は、「買われて、吸収されてしまう」という風に読めてしまうのでイメージが悪いのです。

台湾資本の会社で、日本人技術者が大活躍する。そしてその台湾の会社が、世界に良い製品を販売する。とてもいいことだと思います。なぜなら、日本人は世界に販売するのが下手だから。

そうすると、適切な日本語を探すとして、「会社を高い価値で売ることができた」という意味合いの言葉が欲しい。英語だとバイアウトになるということですね。

シンプルに、「会社を購入」とかどうだろうか。購入の購は、あがなうという意味です。それを手に入れるために、価値に見合った分を支払わなければならない、という雰囲気になります。

台湾のホンハイが、シャープの購入を検討した。先日、購入が決定した。日本の高い技術に見合った資金が支払われた。

うん、これならそれほど悪くないと思います。そして、役に立たない経営陣は辞めてもらって、開発部と総務などいくらかの必要な部署だけが使われたらいいと思います。翻訳チームが逆に必要になりますね。そして、経営陣という名の、お金をたくさんもらって、言いたいことだけ言って、どうすれば責任を取らなくてもいいかだけはよく知っているおじさんたちには、たんまり退職金を受け取って、日本の田舎か、タイかマレーシアにでも移住してもらって、そこで楽しく過ごしてもらいたい。是非そこで、資産や貯金を思う存分使って、経済活動に貢献してもらいたい。あんまり沢山貯金したまま亡くなって、遺産相続の税金で国に献上なんてもったいない。

あと、アジアが近くなってくる要因として、日本は若い人が少ないから、働いてくれる人を日本に来てもらおうなんていう動きがある。移民政策だ。

うまくいけばいいけど、途上国の人が、安くて素晴らしい働きをしに来てくれるというのは、少し幻想なんじゃないかと思う。

途上国の人たちは、ものすごくお金を稼ぐことに関して一生懸命だ。ほんの少しでも儲けるためにあらゆる努力をする。だから、自分たちだけが安くこき使われるということに対して、すごく敏感になる。「本当は私たちはこれぐらいもらえるはずだ」ってすぐ言い出すだろうし、「これしかもらっていないんだから、これしかしない」って絶対態度に出してくる。これは相手の立場になればごく当たり前のことだ。

日本人は、「うちらは金持ちだから、アジアの人たちをうまく使って安く働いてもらえればいいかな」なんて思っている人が少なくないと思う。そんな認識だと、いつの間にかとんでもなく世間離れした人になってしまう恐れがある。

違うんです。日本は安く使われる側に入りつつもあるんです。

それをチャンスととらえるか、「そんなバカな」と世の中を見ようとしないでいるか、それは人それぞれの問題だと思います。

そういうことに目が向けられるように、書くべきことを書いたホリエモン、この先もこの人は一定の役割を果たしていくんだろうなと思いました。良くも悪くも。

明治維新とまでは行かないけど、変化の時に日本はいる。

宗教とは何か 2016/3/12時点

僕はこの問いを、死ぬまで考え続けるのだと思います。もしも死なないとすれば、永遠に考え続けるということになります。

宗教とは何なのでしょう?

人間の思考では答えが出せないものなのでしょうか。

どんな難しい疑問も、最後にはすごくシンプルな答えが出てくるはずです。そうじゃないとおかしい。

現段階での自分の理解を書いておきたいと思います。

それは、「人間はどこから来て、どこへ行くのか」。これが宗教なのだと思います。

自分が生きているということを信じないわけにいかない。人のことが好きになる感情も信じられる。美しいと感じる心がある。楽しいと感じる心がある。悲しいと感じる心がある。さみしいと感じることがある。嬉しいと感じることがある。

生きていることや、自分の中にある感情、それは本当に存在する。

存在するものには、原因がある。

最初の人間の出発点があることを疑える人はいないはず。

その出発点を定義するのが宗教なのだと思います。

ですから、変な書き方ですけど、人が生きているということがもう宗教なのです。

だれもそこから逃れることができない。

「自分はどこから来たのか、どこへ行くのか、どうでもいい」という結論にたどり着く気持ちは、とてもよくわかります。それは、「宗教はやっていないので」という表現になったりします。けれども、それは、「思考停止」という宗教の一つだと僕は思います。「考えてもわからないことは考えない教」とでも言えるでしょう。

誰の目にも明らかな証拠が揃っていないゆえに、宗教は分かれる。

あらゆるところに神がいるとし、沢山の偶像を作り崇拝する多神教。ヒンズー教と仏教。

すべてのものを作った神が唯一おられ、偶像を禁止する一神教。ユダヤ教からキリスト教になり、イスラム教にたどり着く。

どの宗教にも熱心な信者がいて、「自分の宗教が正しい」と思いこんでいる。思いこんでいるという表現はとても失礼な書き方で、本来これは敬虔な信者ということになると思います。

けれども、思いこんでいるという表現が正しいと僕は思います。

なぜなら、真実は一つでなければならないからです。

どの宗教も正しいというのはあり得ないのです。1+1が2だったり3だったりするということはないのです。

人間があることを「正しい」と確信するためには、信じるためのの根拠が必要になります。でも、人間の知り得ることや思考力は限られています。よく人はだまされたりします。それは、「正しい」と思っていたことが、後から間違っていたことが明らかになることがたくさんあるからです。全体を知って理解したと思っていたら、さらなる知識・情報が明らかになったり、考え方を間違っていたことに後から気付いたりするのです。

こういった、間違っていることを正しいと信じ込む状態に、人間はよく直面します。これはもちろん僕も含めてです。

昔のとある歌に、「見てきた物や聞いた事いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ちわかるでしょう?」とかありましたが、この詩ってじわじわと効いてくるなあと思います。

今地球上にある宗教を、大きく分けてみます。まずは5つ。ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。そして、あまり得意じゃないから書いていない儒教。それに加えて、「考えるのやめた教」。この7つぐらいに分類できると思います。

このうちのどれかだけが「真実」なのかもしれません。

もしかすると、今地球上にあるすべての宗教がどこか間違っていて、本当の宗教はこれから発見されるのかもしれません。

5次元を描こうとしたインターステラーを見ていて、最後の結論として、「愛情」を出してきた時に、なんだか腑に落ちる気がしたのです。これはとても直感的なものです。

「愛する」ということが、結論になるのではないかと今の僕は思います。それが正しい宗教になると思います。なってくれないと嫌だ。

例えば、今のすべての宗教は、何らかの「愛する」を持っていて、そして、何らかの「愛する方法を間違っている」部分を持っているんじゃないかと思います。

もし唯一本当の神がいるならば、すべての宗教の間違いを修正してくれるはずだと思います。神や自分や他人や地球をどうやって愛するのか、それをすべて同じ愛し方に統一してくれるはずだと思います。それが真実であってほしいです。

僕らはよく間違ったことを真実だと思いこんでしまう。断片的な知識と、限界のある思考力を持って、自分にできる限りの良い判断をしているが、それがうまくいかないことがたくさんある。

宗教について、僕はこれからもずっと考え続けます。