吉田茂が果たした役割(ドラマ「負けて、勝つ 戦後を創った男・吉田茂」を見て)

まず私は、歴史があまり得意ではありません。ですから、ここに書く事柄は、歴史が好きな方々にとってはあまりにも基礎的なことで、楽しめないかもしれません。その点前置きさせていただければ幸いです。

ここ数年、近年日本史にとても興味が沸いて、それは龍馬伝を見たのがきっかけだったと思うのですが、その後「坂の上の雲」を見て、となれば、さらに太平洋戦争の頃やそれが終結した頃のことが見たくなりました。

「日本のいちばん長い日」という映画も見ました。ポツダム宣言を受託する政府の対応と昭和天皇に録音してもらった玉音放送を流すところまでが扱われたものです。去年リメイクされていたことを知らずに、古いほうで見ました。 1967年に、東宝創立35周年記念として作成されたものです。この映画を見て、当時の陸軍や海軍の様子の理解が進みました。

そして、「負けて、勝つ 戦後を創った男・吉田茂」を見ました(以後、吉田茂ドラマと呼びます)。こちらは、2012年にNHK『土曜ドラマスペシャル』で全5回で作られたものです。TSUTAYAレンタル、助かります。吉田茂ドラマは、太平洋戦争前後のことが扱われていて、吉田茂が外交官として活動していた戦前のことや、戦時中に反戦活動で拘留されていたこと、戦後にマッカーサーとしていた交渉、総理大臣となってサンフランシスコ講和条約と日米安保条約を結ぶ部分などが扱われています。

安保問題って生まれてこの方ずっとイマイチ理解できないでいたのですが、初めて少しわかりました。年は取るものだなあ。アメリカありきの日本の独立。この問題が解決することはないだろうなという私の感想はさておき、このドラマのことについて少し述べます。

まず、渡辺謙がとてもよかったです。まさに適役。

さて、大根系として、吉田栄作を挙げたいと思います。どんなドラマにでもいる、一気に雰囲気を壊してしまうミスマッチな配役です。これはなかなか見ものです。不器用なんだなこの方。朝鮮戦争のために、アメリカが再軍備をちらつかせてきた時に突っ走ってしまう元陸軍士官で、陸軍を復活させようとする役どころなんですが、うーん。全然感情移入できませんでした。他がうまいと、こういう人がとんでもなく目立つ。

脚本、悪くはなかったけど、ところどころちょっとのんびりしたかな。もう少しテンポ良くてもよかったと思います。逆に、天皇とマッカーサーが会話する部分が挿入されていれば良かったのではないかと思いましたが、これはあえて抜いてあるのかもしれません。

私がどうして近年日本史が興味深いと思うようになったかと言うと、そこには、不変の日本人らしさが分析できるんだということに気付き始めたからです。江戸時代しかり、明治維新しかり、日露戦争しかり、太平洋戦争しかり、戦後の復興しかり、時代の波に翻弄される日本人の歴史は、やはり他人事とは思えない親近感があるのです。

軍部が暴走したから日本は戦争に突入した。そして、戦争が終わってから司令官たちは、「自分は戦争がしたいとは思わなかったが、それを否定できるような空気ではなかった」と答えたりします。外国人から見たら訳が分からないでしょう。しかし私たちはなんだか、わかるのです。「このまま行ったらダメだろうな。。」と思いつつも、恥への恐れと何よりも強い協調性を持つ我々の国民性は、間違ったまま突っ走ることがとてもよくあるのです。「イギリスやスペインやアメリカと同じように、我々もアジア圏を植民地にするのだ」としか考えられないのです。自分たち日本だけが、日露戦争で勝ったところで、「もう戦争は終わりにして、それぞれの国が独立できるように援助することに率先しよう」なんて言い出せたら、もうそれは日本人ではないのです。笑。

私は、政治をする方々が、文系なのか理系なのかということを時々考えます。脳みそで言えば、右脳的か左脳的かということです。感情優先なのか、理論優先なのかということです。物事を進めるとき、小さなプロジェクトだろうが国を動かすような大きなプロジェクトだろうが関わりなく、この感情部分と理論部分をどうやって混ぜていくのかというのがとても大事だと思うのです。

感情なく理屈だけで進めれば、間違ってはいないが人の心に届かない。理屈なく感情だけで進めれば、後からひどいしっぺ返しを食らうし、そもそもうまくいくわけない。これをどうやって混ぜられるか、これが問題なのです。

一人の人が、感情面も理論面も完璧にカバーできるということはまずあり得ません。時にはそんな天才もいるのかもしれませんが、現実的ではないでしょう。司馬遼太郎のような偉大な小説家をもってしても「私は算数が苦手だ」と言ったのです。小学生の頃に、「国語や社会が好きだった子」と「算数や理科の実験が好きだった子」は、大人になってから、それぞれの得意分野が大きく異なることに気づき、お互いがフォローしあえる関係になります。

この、持って生まれたものというのは、どうしようもないのです。運動が苦手な子がプロサッカー選手になろうと思っても、どうやっても無理なのです。物事を記憶して人に配慮することが特に得意な文系と呼ばれる人たちが、難しい思考の結果としてどんな人からも間違っていないと言われるようなロジック・理論を組み立てるのはどうやっても無理なのです。そして、理論を組み立てて、理屈なら正しいことをとんでもないスピードで思考できる人が、回りの人の感情にひたすら配慮して物事を進めるというのは、逆立ちしてもできないことなのです。

政治は文系の人たちの世界です。他人に配慮して、他の人から目をかけられ、他の人から好意を持たれ、自分の立場を他の人から引き上げてもらわなければならないからです。そこで一つ心配なのは、政治の世界に、理論やロジックをどうやって持ち込んでいくのかと言うことです。気難しい理屈屋の技術をきちんと引き出せるノウハウがそこにはなければなりません。いわば、優秀な営業と、優秀な技術屋、これらがしっかりと組み合わされば、たいていの物事は解決できます。営業が感情面をすべてケアし、技術屋がロジックを破たんなく組み立てていく。このコンビネーションです。

これがうまくいった会社は、成功します。これがうまくいったプロジェクトは、順調に進みます。これがうまくいった国は、成長し続けていくはず、なのです。吉田茂は、優秀な官僚を引き上げて、政治に足そうとしました。佐藤栄作や池田勇人など。これらがどれほど右脳と左脳をミックスしたのか私にはまだわかりませんが、物事がうまくいっているときって大抵こういうことなんじゃなかろうかと思うようになってきました。

けっこうまとまりのない文章ですみませんでした。(最近こういうことが多い…)多分私の言いたいことは、日本の歴史を、今動いている物事を進めるときの参考にしたい、ということです。そして、ドラマ結構面白かったので、よかったらどうぞ。

 

日本語を大切にし、活用し、成長させる(デカルトはラテン語ではなくフランス語で著作したことについて)

はじめに断っておきたいのですが、私はデカルトのことに詳しくなく、彼の書いた本を読んだわけでもありません。しかし、最近よく考えている「母国語の成長」について書かれた施さんの本に書かれたことがとても印象深く感じていて、今回そのことについて言及したいと思います。

施さんはこう書きました。まずは引用させてください。


ルネ・デカルトの「方法序説」、「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉で著名なこの本は、ラテン語ではなく、フランス語で書かれた。「土着語」(フランス語である母国語)で書かれた。

デカルト自身、ラテン語ではなくフランス語を用いる理由を次のように記している。
「私が、私の先生たちの言葉であるラテン語でなく、私の国の言葉であるフランス語で書くのは、まったく純粋で持ち前の理性しか使わない人の方が、昔の書物しか信用しない人よりも、私の意見をよりよく判断してくれることを期待しているからである」
また、「一握りの学者や特権階級ではなく一般の人々に広く読んでもらい、彼らの良識に訴えかけ、その判断や検討を仰ぎたいと考えたことを挙げている。教育をあまり受けていない「女性の方々さえもが何ごとかを理解すること」を願って書いたとも記している。

唐突な引用でわかりにくかったら申し訳ありません。なぜこのことに興味を持ったのか説明します。

まずこの内容は、「フランス語がフランスに住む現地人の言葉でしかなく、世界に通用するような言葉としてまだ成長していなかった時代のこと」です。当時の国際語はラテン語でした。聖書はラテン語でしか読むことができず、一部の知識層しかラテン語の読み書きができなかったころのことです。

デカルトは、知識層用の言葉であるラテン語でモノを書こうとせず、現地の人たちの言葉(それが土着語と本の中で呼ばれています)、フランス語で書き表そうとしました。

頭のいい人たちが、頭のよくない人たちに知識や理解を与えないでいることにより、既得権益を守るという話はよくあります。どこにでもあります。例えば江戸時代に、徳川幕府は北海道である松前藩に自分たちで作物を育てる方法も教えなかったし、じゃがいもの苗も渡らないように禁止していました。そのようなことは今でもあることでしょう。

デカルトはそれに逆行したのです。ラテン語の中で生きて、知識層にとどまり、平民である土着のフランス語を読み書きする人たちを見下すこともできたかもしれないのに、どんなフランス人でも思想に触れることができるように、フランス語での思想記述に取り組んだのです。

このことについて、戦前の哲学者三木清さんという方が、「デカルトが「方法序説」をフランス語で書いたことは、「ラテン語の、伝統の、権威の「神秘を冒とくした」」ことであると同時に、「実に社会的な、政治的な意味を有する大きな革命だった」と指摘されているそうです。

土着の平民のために、知識階級が自分たちだけで隠そうとしているものを、わかりやすく説明する。それは知識階級用の言葉を使うのではなく、平民用の土着語(母国語)をたくさん使うということであり、母国語で様々な事実や考えや仕組みを説明しようとすればするほど、母国語の文法や語彙は成長し強力になると同時に、知識階級の既得権益を壊して、多くの人に益が渡るよう分配するということなのです。

それで逆から乱暴に書きますが、母国語をないがしろにして知識階級の言葉を優先するということは、国際語を使う知識階級の既得権益を守り、自分が知識階級にとどまって権力を持とうとする行いになりかねないと言えます。

どんな人も自分にかかわる大事なことは、わかりやすい言葉できちんと説明してほしいし、それをきちんと理解していたいというのが普通に持つ気持ち・感情だと思います。(違う方がいたらすみません)

仮に例えば世界の大事なことは、今後英語だけで説明されますということになったとします。英語の得意な人たちだけが理解できて、ついていける、そんな世界になったとします。それは嬉しいことでしょうか。英語を勉強しなかった人が悪い、それでいいでしょうか。私は全くそうは思いません。自分が英語が苦手だからそう言っているのではありません。(もちろん少しはありますけど)

なぜか。それは、どれだけ日本人が英語が得意になったとしても、後から勉強したり英語圏で生活したりしてどれだけ英語に慣れたとしても、母語を超えて、日本語を超えて心の深くまで感じ取れる言語になることはほとんどありえないからです。

日本語を習得するという壁は、とんでもなく高いです。日本語以外の母国語を持った人が、後から日本語を勉強して、母語以上に日本語を上手に操れるようになるなんて、ほとんど不可能です。

私はこの、母語という言葉の壁の高さについて最近特に考えるのです。日本語が母語であるというこの事実は、到底簡単に変えることができないものの一つだなとつくづく感じるのです。

話がまとまらなくなってきましたがもう少し頑張ります。

ここで書きたいことは、世界の中で大事な情報は、それは事実であったり、仕組みであったり、思想であったりすると思いますが、それらが、日本語を母語とするすべての人たちが分かるように常に説明されるべきだと考えている、ということです。特別な人たちが秘密を共有して、それらが一般に知られないようにするということを壊さなければいけないときがあるのではないかということです。

それがなされないということは、日本人が世界から取り残されていくということになると思います。

親が、子供の英語教育に熱心なのはとても良いことです。日本人が外国語を習得するというのはとても良いことです。私はそれを否定したいのではもちろんありません。

第二言語(母語の次に勉強する言葉)は、母語がしっかりと強力に確立されているからこそ、意味があるのです。

それで、どんな専門的な分野であっても、日本語できちんとわかりやすく説明し続ける、それが多くの日本人に読めるようにする、このことが今もこれからもずっと必要だと思うのです。

日本のテレビや新聞が、既得権益の問題で、スポンサーの絡みで、情報の内容に偏りがあることはよく知られていることです。

けれども、今はネットがあって、どんなことでも自分で発信できるようになっています。「テレビがちゃんと正しいことを言っていない、説明すべきことを説明しない」とか言って、放送局や新聞社のせいにして、日本語が薄まっていくのをただ受け入れていくのはもったいないことだと思います。

色々な業界の事情通が、専門分野の先頭を走る方たちが、大切なことをわかりやすく、どんな人にでも読めるように日本語で説明をし続ける、これが今後の日本に求められていることだと思います。

NEVERまとめとか、はてなブックマークとか、wikiとか、有料メルマガとか、情報を発信したり集めたりするツールはどんどん進化しています。

ニーズが高く求められているのは、わかりやすくて中身が濃い日本語の文章です。それも、なかなか知ることができない業界の深いところの話や、専門分野の先頭の方々の話です。

日本語がこれからもずっと、世界に通用する高機能で表現力豊かな言語として生き残り続けることを願います。日本人とは、「日本国籍を持つ人」ではなく、「日本語を母語にしている人」のことじゃないかと最近思っています。日本をこれからも、もっともっと良い意味でガラパゴス化させて、特別な島国として成長させられたらと思います。それが、ほかの国の人たちとも今以上に仲良く過ごしていくための方法なのではないかと考えます。日本が国際的になるためには、英語教育の強化ではなく、日本語を今以上に活用し、読み書き(それは今の時代では受信発信ですね)ができる教育の強化なのではないかと思うということです。そして、既得権益を守るための秘密が特定の人たちに維持されるのではなく、どんな人でも今の世の中で起きていることが理解できるように説明し続ける人たちの表現努力が重要なんだと思います。

#ちょっと要点がぶれつつ書いてしまったので読みにくかったらすみません

失われてはいけない日本語のすばらしさ

僕らは日本語を一瞬で読むことができる。

これが、次のように書かれていたらどうだろうか。

「bokura ha nihongo wo isshun de yomukotoga dekiru.」

脳に全く入ってこない。一文字一文字を目で追う必要があるし、読んだ後もまだ意味がぱっとつかめない。こんなの日本語じゃないと思います。

けれども歴史が一歩間違っていたら、日本語がすべてローマ字表記に変更されていたかもしれないということを最近知りました。戦後GHQが取り組もうとしていたことなどが知られています。詳しいことは別ページに譲ります。

http://matome.naver.jp/odai/2136914129576092801

僕は時々、日本語を勉強したい外国人から質問を受けることがあります。日本語教えてよって。ある時こんな会話をしました。

「日本語覚えるには、何文字覚えればいいの?英語は26文字だよね。」

「まず、ひらがな50個ぐらいだね。」

「うわっ、多いな」

「そして、カタカナ50個ある。」

「ひっ、2倍になった。。 でも、確か漢字ってあったよね。」

「ある。」

「うわー。漢字いくつ覚えればいいの?」

「うーむ。たっくさんあるけど、まずは1000個ぐらいかな。」

「…日本語覚えるの、、ムリ、、」

このとき僕は初めて外から日本語を眺めたのです。自分にとって当たり前になっている日本語は、特別なものなんだと。

僕はここで言いたいことがあります。

「日本語が母語であり、日本語を流ちょうに扱える人たちが、日本人だ。そして僕ら日本人は、僕らの将来のために、日本語をこれからもずっと大切に守らなければならない。」

とです。どんなことがあってこの結論に至ったかはこれから少しずつ書こうと思いますが、僕はこの立場を表明したいと願うようになりました。

ここ2年ほど、新しい外国語習得と戦いました。少しずつ日常会話ができるようになってくるに従って、日本語との違いをひしひしと感じるのです。日本語だったら簡単に言えるのに、外国語ではうまく言えない場面に何度もあたり、それは僕が外国語になれていないからというだけではなく、言葉によって特定の場面で得意不得意があるということがわかるようになってきたのです。それは言葉そのものにスペックがあるような感覚なのです。英語だったらこういうことを言うのは得意だけど、こういうことを言うのは語彙が少ないとか、そういうことです。

母語が日本語であるということは、脳みその中の基本的な処理は日本語で行われます。第二言語で英語を覚えたとして、どれほど第二言語が得意になっても、母語の位置は揺るぎません。このことは替えが効かないのです。

例えば、「私」という表現があります。これは後で紹介する本の受け売りなんですけれども、日本語は「私」に相当する言葉がたくさんあります。

私、僕、俺、自分、といった直接的な表現のみならず、間接的に「先生はね」「おじさんはね」「おばさんはね」「お父さんはね」「お母さんはね」と言うことすらできます。これらすべてが英語では「I」になります。

(一人称の多さについては以下のページも参考になるかと思います。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/189754.html )

これは、単純な「日本語と英語がどちらの方が表現力があるか」という問題ではもちろんありません。言葉の違い、特徴の違いをわかりやすくしているということが言いたいのです。

英語の考え方は、まず最初に「I」という不変の自分がいるのです。物事を考え、判断する自分がまずいる。そして、それに続いて、自分が何をしたいのか発信する。さらに進んで、そのあとから細かいことを調整して、回りと問題が起こらないように都合をつけるという流れがここにはあるのです。

日本語の考え方は、一番最初に、今この言葉を聞く人、聞く人たち、読む人たちのことを考えて、自分がどんな立場なのかということを、「私は」もしくは、「僕は」もしくは、「俺は」「先生は」などと言うことで調整するのです。不変の自分ではなく、周囲の都合に合わせて調整する自分が前面に出てくるのです。

これはまさに国民性の違いに直結してくるのです。日本人だから回りに配慮ができる、アメリカ人だから主体性がある、これは間違ったことを言っていないと思いますが、僕が最近考えていることは少し違います。

日本語が母語だからこそ、日本語的な性格や生き方が自然と身についてくる。英語が母語ならば、自然と英語的な考え方で生きるようになる、そういうことです。

タイトルになかなかたどり着かないですね。ちょっと風呂敷を広げすぎたようです。「失われてはいけない日本語のすばらしさ」については、これからさらに何回か書いてみたいと思っています。

漢字があることによる表現力の高さとか、漢字に音読みと訓読みがあることによる便利さなども書きたいと思っています。世の中で、最初に覚えたり身に着けたりするのが大変なものって、後からその身につけたものがとても自分を助けますよね。そんな感じです。

これに関しては、僕が考えようとしていたことを、素晴らしいわかりやすさで説明している本と最近出合いましたので紹介します。この方は説明がわかりやすいだけでなく、根拠の理屈がしっかりしているので読んでいて納得します。この本の唯一の欠点はタイトルがあまりよくないことです。釣りタイトルと呼ぶのでしょうが、このタイトルのせいで逆に読むべき人から敬遠されてしまわないか心配になります。まさにこの本にこそ、「失われてはいけない日本語のすばらしさ」というタイトルをつけて販売したらよいのにと思います。