動機のクオリティ

時間に遅刻する時、それを自分が決定したとは思いたくないのが普通です。もちろん、不測の事態が起こり遅刻する場合、迷惑する人たちに連絡することはあるかもしれませんが、それはごく稀なケースでしょう。通常の遅刻は、「遅刻しよう」と自分の心が決めていると言えます。
例えば19:00から予定があり、仕事を17:30に終わらせて上がればちょうど良い時間に到着できるとします。そして大抵の場合、17:30に上がることができず予定よりも遅れることになります。これを多くの場合「仕事が長引いていて、遅れました」と言い、仕事のせいにします。しかし、この表現は正しくない場合が多いと感じます。「仕事を17:30以降も行うことに決めたので、遅れていくことにしました」と言った方が正しいことでしょう。私にも沢山経験があります。
17:30に帰ることはできます。入り口が閉鎖されたり、暴力を振るわれることでもない限り、自分で決めて席を立てば帰ることができるのです。ですから、遅刻すると決めたのは自分です。自分の心です。仕事のせいではありません。
人が動く時、そこには必ず心の動きがあります。その質について考えていて、最近思うことがあるのでまとめたいと思います。乱暴な分類とランク付けですが、わかりやすいと思うので現時点ではこのようにしました。最近読んだ本にも影響を受けています。

<主な動機の分類とレベル>
0.行動しない
1.罰則を恐れて行動する(こわいから)
2.報酬を求めて行動する(ほしいから)
3.義務感ゆえに行動する(やるのがとうぜんだから)
4.愛や欲求ゆえに行動する(やりたいから)
5.意義を感じ取り、与えたいと願って行動する(あたえたいから)

ここにある何らかの理由をもって遅刻することを決めています。これらの要素は通常一つだけではなく、絡み合っているでしょう。仕事に対する動機と次の予定の動機を比べたりしていることもあります。このレベル付けを意識することは、満足感や幸福感と大きく関係してくると思います。レベルの高い動機で動き続けている時に幸せを味わいやすいと感じるからです。
怖いから動く(レベル1)、欲しいから動く(レベル2)、という動機の成分はあまり質の高いものではないと言えます。筋の通った証拠をあまりまだ見つけていませんが、主観として満たされません。よくいわれる“アメとムチを使い分ける”というのはまさにこの怖いからと欲しいからを操る手法と言い換えることができます。ですから私はこの方法がとても嫌いです。自分が罰と報酬ゆえに動いている時、ちっとも幸せではありません。
欲求ゆえに行動する(レベル4)と与えたいと願って行動する(レベル5)の違いは、「受けるより与えるほうが幸福です」という言葉がぴったりと当てはまります。この受けるという言葉は、単にプレゼントをもらうという単純な意味だけではなくて、自分の欲求を満たすという意味が大きく含まれていると感じます。欲求を満たすことはもちろん幸せに資することですが、それを超える幸福感は“与えたい”という動機ゆえに行動することだという意味で私は取っています。
これから色々な角度でこの分類を検証してみようと思っていますが、今回例としてみた残業する時の動機の吟味をして終わりにします。

<残業すると心が決める成分>
1.罰則
-残業しないと上司に怒られるから
-もし自分が今日果たすべき分があり、それを終わらせないと減給や罰則があるから
2.報酬
-残業代が欲しいから
-残業していると他の人から褒められたいから、認められたいから
3.義務
-やるべき仕事が終わっていないから終わらせたい
-みんなやってるのに自分だけ先には帰れないでしょ
4.愛や欲求
-この作業をしているのが単純に楽しいから
5.意義や与えたい
-この仕事を通してある人達に価値が提供できることはすごく嬉しいから定時は関係なく働きたい

会話はバレーボールのトス回し/アタック

バレーボールのトス回しって楽しい。みんなで輪になってアンダー、オーバーでボールをつないでいく。ビーチボールで海辺で遊んだりもしますね。この時みんなに嫌われるのは、無謀なアタックを打ち込むことや、あまりにもひどいところへボールを上げてしまう人です。

会話はキャッチボールによく例えられるけど、私は最近バレーボールのトスを回すほうがよりぴったり当てはまると感じるようになった。なぜならゆっくり取って、ゆっくり投げるような時間は、実際の会話にはあまりないと思うからだ。そのテンポと難しさが会話にしっくり来るような感じがする。

みんなで楽しい雑談をするには、バレーボールを丁寧にみんなで回す意識をするのがちょうどいいと思う。時にアタックしてみたりすることもみんなを楽しませるが、適度に行うことが重要だ。取れそうな人めがけて取れそうな強さで打てば大丈夫。これはボケと突っ込みのことをうまく表現できると思う。

とても痛い話だが、私はみんなで楽しいトス回しをしている所で、何も考えないでアタックしていたタイプだと思う。よくよく今までの経験を思い出してみると、みんなが雑談しているところで、自分の意見やら経験などをどばっと話すと、一瞬会話が停止していたことを思い出す。“なんでそんなこというんだ”とは指摘されないものの、親切な人がまた会話をスタートさせるように、ボールを拾って優しくトスを始めてくれていた。その親切にも気づけない残念な人だったなと痛感する。

丁寧なトス回しとは、そこにいる全員にとってどうでもよい話をすることだと定義したい。一人でも何かを尋問されているように感じたり、自分の深い意義ある話を繰り出したりすることがないのが雑談だと思う。誰かの過去か現在か未来を聞きだしたり、自分の過去か現在か未来を深く説明したりしないこと、そのことに意識を集中することによって楽しいトス回しは続いていく。どうでもいいことだから、みんなどうでもいい展開をし続けることができ、くだらない談笑が生まれる。どうでもいいことがすごく重要なのだ。それがコミュニケーションの土台になるんだ。

ある所から、誰かの少し真面目な話に入ったときは要注意。まるでバレーボールをキャッチして抱きしめているようなものだ。みんなつまらない可能性がある。真剣な話をするべき時と場所と状況がある。わきまえる必要性を覚えることができたらよいと思う。しかし、時にその真面目な話はみんなの関心を集めることがある。その場合は、バレーボールを回す雑談は終了だ。アクティブリスニングに突入し、傾聴する。こんどは相手の意見を肯定し、絶対に否定しないことが求められる。そんな時に割り込んだり茶化したりしたら、それもまたひんしゅくを買ってしまうことだろう。そんな真面目な話を引き出すことができるのもまた、雑談が成立しているからこそなのだ。

無謀なアタックを打つのは止めよう。自分への訓戒として。

次男は出世する

最近になってようやくコミュニケーションの重要性の認識が高まってきた。随分と遅いけれど、気が付かなかったよりはましだと考えるようにしている。世の中のあらゆる物事は一人の人が考えて始まる。しかし、物事を進めていくときには当然他の人との関係がスタートする。いかに確固とした自分を成長させていけるのかという段階を経て、必ず次に考慮するのは他の人との良い関係が構築できるか、となる。“人は一人では生きていけない”と本当によく聞く。

コミュニケーション能力!

これは生きていく上で相当重要なパラメーターである。小学校の授業に“会話”という教科をなぜ導入しなかったのか、28歳にして疑問を持つようになった。私がこれまで教えられてきたことは、“きちんとしなければいけない”、“言われたことを守らないといけない”、“無駄話は慎むように”、“宿題を出さなければいけない”、“間違ってはいけない”というようなことだった。

教えられることの中に、“上手に他の人と会話するように”、“そしてそのためにはこうするように”、ということはあまり教わってこなかったと感じる。何も考えないで色々な人と話し、話が続く人は”気のあう人”となり、続かない人は“あわない人”でよいと思っていたきらいがある。これはとんでもない事だと気がついた。これは本当に大事なことだ。ここには、とりわけ性格的な問題と、育った環境の問題が大きい。

ここで血液型の話はやめておこうと思うが、どんどん思いついた方向へ話を持っていくタイプの人同士が対面した場合、盛り上がりすぎたり、何にも会話が成り立たないことがあったりとむらがある。協調性の高い人の偉大さを知る。

会話が常に中心にあった家族で育っていれば、話し続けることには何の抵抗も無いことだろう。そして、会話を楽しむのが苦手な家族で育てば、相応な影響を受ける。何を切り出したらいいのか沸いてこなかったり、上手に相槌を打つのが下手だったりする。

そして、ここが今回のポイントになるわけだけど、兄弟の構成が大きく影響する。年の近い家族。長男はどう頑張っても甘えるのが苦手になり、責任感が強くなる。そして、次男は年上とのコミュニケーションが上手であり、したたかになる。末っ子は甘える傾向が強く、責任を持って動かすことの経験が乏しくなる可能性が高い。

もちろんこれらは断定できるものでもないし、様々なその他の要素が関係することであることはここでちゃんと書いておきたい。ただし、やはりこれらのことを頭に入れておいて前提とするのはとても意味のあることだと思う。

さて、ここで少しだけ角度を変えて、人が社会人になっていく時のことを考えたい。色々な組織やグループの中で自分の役割を持つようになっていく時のこと。そのとき人は、誰しも一度新参者となり、先輩や上司などとの接点が生まれる。学校の部活などですでに学んでいる人たちは多少得意なのかもしれない。どんな人も、目上の存在と一緒になるところからスタートする。

長男にとって、常に自分が率先してきて、自分の責任で物事を動かしてきていた場合、この状況が非常にやりにくいと感じる。任せられれば仕事をこなすのは得意なのに、目上の人と一緒に動こうとした瞬間ぎこちなくなる。そして、会社にいる限り、自分が社長にならない限り、ずっと自分の上司の存在がある。回りとのコミュニケーションがきちんとできるのかどうかは、きちんと与えられた仕事が果たせるかどうかと同じほど重要性があることに気がつく。

これは私が現段階で考えるぶっきらぼうな表現だけれども、100点満点で例えるとすれば、自分に与えられた仕事をきちんと果たせるかどうかの配点は50点だと思う。そして、目上の人間ときちんとコミュニケーションできるかが40点であり、年下とのコミュニケーションが10点としてみたい。

人とのコミュニケーションが苦手な場合、どれだけ与えられた仕事の能力が高くても、50点しか取れない。長男が年下とのコミュニケーションが得意だったら、60点は取れるかもしれない。しかし、目上の人間とのコミュニケーションの40点をカバーすることは、思いのほか重要なのだ。次男にとって、仕事そのものが30点しか取れなくとも、年上との交渉が上手であれば、合計70点は取れる。トータル的に見て、完璧長男タイプより、次男タイプの方が柔軟で評価は高いといえる。“世渡り上手”などと言われ否定的にとられることも多いが、大事なことをきちんとしている正当な評価が与えられるべきだと思う。

次男が出世しやすい、肥沃な土壌があることはごく自然なこと。しかし、私達はこのことを認識して、苦手分野をカバーし、得意分野を伸ばすことで、どんな人であっても充実した仕事やコミュニケーションを楽しめるようでありたい。そしてそれが自分のものにできればと思う。