仕事/動機のクオリティ

前回から動機のクォリティについて考えています。残業と遅刻を最初に取り上げましたが、今回は仕事そのものという角度で考えます。まずは仕事に取り組もうとした時の一般的と思われる成分を上げたいと思います。

<一般的な仕事に対する動機の成分>
レベル1.罰則を恐れて行動する(こわいから)
-上司に怒られたくないから作業する
-回りから馬鹿にされたくないから作業する

レベル2.報酬を求めて行動する(ほしいから)
-お給料が欲しいので作業する
-自分の能力を認めて欲しいので作業する

レベル3.義務感ゆえに行動する(やるのがとうぜんだから)
-みんながしているので自分も作業する

レベル4.愛や欲求ゆえに行動する(やりたいから)
-好きな仕事なので作業する

レベル5.意義を感じ取り、与えたいと願って行動する(あたえたいから)
-この作業によって喜んだり助かったりする人のことを知っていて、是非そのために働きたいと思う

前回書きましたが、この中でレベルの高い成分が多ければ多いほど、そこから充実感と幸福感を味わうことができます。医者や看護婦さんがひたすらハードでも続けていられるのは、そこにある仕事そのものが質の高い動機と直結しているからだと思いますし、給料なしのボランティア団体に自分を犠牲にできる人たちの気持ちもここから理解できると感じます。プロスポーツ選手やミュージシャンが、有名になって活躍することを目指して打ち込み続けるものの、名誉と金銭を得た時に大抵環境問題や世界的な問題に与えようとすることもここから説明できると思います。ずっと“やりたいから”してきた仕事が満たされた時に、それ以上に人間を満たすのは“与えること”だと気づくのではないか、ということです。
嫌な作業を命令されたとします。意義が感じられません(レベル5以下)、やりたくありません(レベル4以下)、自分がやらなければならない義務も感じません(レベル3以下)。そうするとその嫌な作業はレベル1,2の動機で行うことになります。質が高い作業になるわけがありません。不必要なストレスが溜まります。
この時に大切なことは何でしょうか?それは、その作業の動機の成分を質の高いものにするよう自分から動き出すことです。決して、「こんなつまんねー仕事やってらんねーよ」と愚痴をこぼしながら「仕方ねぇなー」とやることが解決策ではありません。
就職や転職のアンケートがよく実施されます。どんな会社に行きたいですか?というものです。大抵その中には“やりがいのある仕事”という項目が上位にランクインします。ぶっきらぼうな書き方をしますが、やりがいのある仕事を求めて職種を選んだ場合、ほぼ間違いなくやりがいのない作業に飽き飽きすることでしょう。やりがいは人から与えてもらえると思っている時点で間違っているのです。自分で切り開くしか手がありません。甲斐性は自分で発見する以外見つかりません。もし教えてくれる人がいたらそれは過分のご親切です。
その方法は、自分に与えられた作業の背景を認識することにより、動機の質を上げることです。レベル4,5の成分を自分の心に補給することです。そのためには作業依頼者とのコミュニケーションが欠かせないことでしょう。コミュニケーションスキルを磨く必要があります。その作業はなぜあるのでしょうか。誰が助かるのでしょうか。どこに益があるのでしょうか。自分のやりやすい方法で行うことができるかどうか交渉することもできます。そうやって、自分のやりたい仕事に近づけ、意義を感じ取っていくのです。「それならこの作業を是非やりたい」「この作業をすることができるのはとても有意義だ」と思えるようになるまで負けないことです。
そうです、つまらない作業に退屈しストレスに感じ続けるのは、負けているのです。何に?作業依頼者にです。どのように?うまい言葉が見つかりませんが、いわば精神的にです。仕方ないからやる、というのは精神的に負けている人の台詞です。嫌だから断るのでもなく、仕方なく引き受けるのでもなく、お互いが納得できる作業になるようにコミュニケーションすることが鍵となります。
作業における動機のクオリティ。やりがいは自分で切り開くしかない!

動機のクオリティ

時間に遅刻する時、それを自分が決定したとは思いたくないのが普通です。もちろん、不測の事態が起こり遅刻する場合、迷惑する人たちに連絡することはあるかもしれませんが、それはごく稀なケースでしょう。通常の遅刻は、「遅刻しよう」と自分の心が決めていると言えます。
例えば19:00から予定があり、仕事を17:30に終わらせて上がればちょうど良い時間に到着できるとします。そして大抵の場合、17:30に上がることができず予定よりも遅れることになります。これを多くの場合「仕事が長引いていて、遅れました」と言い、仕事のせいにします。しかし、この表現は正しくない場合が多いと感じます。「仕事を17:30以降も行うことに決めたので、遅れていくことにしました」と言った方が正しいことでしょう。私にも沢山経験があります。
17:30に帰ることはできます。入り口が閉鎖されたり、暴力を振るわれることでもない限り、自分で決めて席を立てば帰ることができるのです。ですから、遅刻すると決めたのは自分です。自分の心です。仕事のせいではありません。
人が動く時、そこには必ず心の動きがあります。その質について考えていて、最近思うことがあるのでまとめたいと思います。乱暴な分類とランク付けですが、わかりやすいと思うので現時点ではこのようにしました。最近読んだ本にも影響を受けています。

<主な動機の分類とレベル>
0.行動しない
1.罰則を恐れて行動する(こわいから)
2.報酬を求めて行動する(ほしいから)
3.義務感ゆえに行動する(やるのがとうぜんだから)
4.愛や欲求ゆえに行動する(やりたいから)
5.意義を感じ取り、与えたいと願って行動する(あたえたいから)

ここにある何らかの理由をもって遅刻することを決めています。これらの要素は通常一つだけではなく、絡み合っているでしょう。仕事に対する動機と次の予定の動機を比べたりしていることもあります。このレベル付けを意識することは、満足感や幸福感と大きく関係してくると思います。レベルの高い動機で動き続けている時に幸せを味わいやすいと感じるからです。
怖いから動く(レベル1)、欲しいから動く(レベル2)、という動機の成分はあまり質の高いものではないと言えます。筋の通った証拠をあまりまだ見つけていませんが、主観として満たされません。よくいわれる“アメとムチを使い分ける”というのはまさにこの怖いからと欲しいからを操る手法と言い換えることができます。ですから私はこの方法がとても嫌いです。自分が罰と報酬ゆえに動いている時、ちっとも幸せではありません。
欲求ゆえに行動する(レベル4)と与えたいと願って行動する(レベル5)の違いは、「受けるより与えるほうが幸福です」という言葉がぴったりと当てはまります。この受けるという言葉は、単にプレゼントをもらうという単純な意味だけではなくて、自分の欲求を満たすという意味が大きく含まれていると感じます。欲求を満たすことはもちろん幸せに資することですが、それを超える幸福感は“与えたい”という動機ゆえに行動することだという意味で私は取っています。
これから色々な角度でこの分類を検証してみようと思っていますが、今回例としてみた残業する時の動機の吟味をして終わりにします。

<残業すると心が決める成分>
1.罰則
-残業しないと上司に怒られるから
-もし自分が今日果たすべき分があり、それを終わらせないと減給や罰則があるから
2.報酬
-残業代が欲しいから
-残業していると他の人から褒められたいから、認められたいから
3.義務
-やるべき仕事が終わっていないから終わらせたい
-みんなやってるのに自分だけ先には帰れないでしょ
4.愛や欲求
-この作業をしているのが単純に楽しいから
5.意義や与えたい
-この仕事を通してある人達に価値が提供できることはすごく嬉しいから定時は関係なく働きたい

会話はバレーボールのトス回し/アタック

バレーボールのトス回しって楽しい。みんなで輪になってアンダー、オーバーでボールをつないでいく。ビーチボールで海辺で遊んだりもしますね。この時みんなに嫌われるのは、無謀なアタックを打ち込むことや、あまりにもひどいところへボールを上げてしまう人です。

会話はキャッチボールによく例えられるけど、私は最近バレーボールのトスを回すほうがよりぴったり当てはまると感じるようになった。なぜならゆっくり取って、ゆっくり投げるような時間は、実際の会話にはあまりないと思うからだ。そのテンポと難しさが会話にしっくり来るような感じがする。

みんなで楽しい雑談をするには、バレーボールを丁寧にみんなで回す意識をするのがちょうどいいと思う。時にアタックしてみたりすることもみんなを楽しませるが、適度に行うことが重要だ。取れそうな人めがけて取れそうな強さで打てば大丈夫。これはボケと突っ込みのことをうまく表現できると思う。

とても痛い話だが、私はみんなで楽しいトス回しをしている所で、何も考えないでアタックしていたタイプだと思う。よくよく今までの経験を思い出してみると、みんなが雑談しているところで、自分の意見やら経験などをどばっと話すと、一瞬会話が停止していたことを思い出す。“なんでそんなこというんだ”とは指摘されないものの、親切な人がまた会話をスタートさせるように、ボールを拾って優しくトスを始めてくれていた。その親切にも気づけない残念な人だったなと痛感する。

丁寧なトス回しとは、そこにいる全員にとってどうでもよい話をすることだと定義したい。一人でも何かを尋問されているように感じたり、自分の深い意義ある話を繰り出したりすることがないのが雑談だと思う。誰かの過去か現在か未来を聞きだしたり、自分の過去か現在か未来を深く説明したりしないこと、そのことに意識を集中することによって楽しいトス回しは続いていく。どうでもいいことだから、みんなどうでもいい展開をし続けることができ、くだらない談笑が生まれる。どうでもいいことがすごく重要なのだ。それがコミュニケーションの土台になるんだ。

ある所から、誰かの少し真面目な話に入ったときは要注意。まるでバレーボールをキャッチして抱きしめているようなものだ。みんなつまらない可能性がある。真剣な話をするべき時と場所と状況がある。わきまえる必要性を覚えることができたらよいと思う。しかし、時にその真面目な話はみんなの関心を集めることがある。その場合は、バレーボールを回す雑談は終了だ。アクティブリスニングに突入し、傾聴する。こんどは相手の意見を肯定し、絶対に否定しないことが求められる。そんな時に割り込んだり茶化したりしたら、それもまたひんしゅくを買ってしまうことだろう。そんな真面目な話を引き出すことができるのもまた、雑談が成立しているからこそなのだ。

無謀なアタックを打つのは止めよう。自分への訓戒として。